『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』~偶然サバイバルした者の務め

殺人鬼、エホバの証人

エホバの証人の子供が交通事故で重体となり、親に輸血拒否されて殺された事件。1985年の川崎事件をノンフィクションで描いた『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』を読み始めた。

1985年当時、私は5才。被害者と同じエホバの証人の子供だった。テレビでセンセーショナルに報じられる事件を、私の親を含めたエホバの証人の大人たちは殉教者を褒め称えるかのように高揚した面持ちで見ていた。

当然の決断、勇気ある正しい決断だと、子殺しのエホバの証人の親を讃えた。自分たちも同じ境遇になったら迷わず同じ行動を取ろうと励ましあう。

バカですか?想像力の圧倒的欠如。

本当に、我が子の「輸血無しでの生命残存時間が3時間」と告げられたら?

臨場感満載で考えられないから、子どもに絶対輸血させないと簡単に言ってしまう。

輸血すれば、ほぼ間違いなく助かる命。輸血しなければ失われる命。事態は緊急で、あーだこーだやっている間に、命の灯はぐいぐい消えかけていく。

もしその場に直面しても、子どもの命に対して現実感を持って直面できないのなら、エホバの証人の殺人鬼たちは事前の安直な決意に従って、我が子の命を削ぐことになる。

エホバの証人が命がけで輸血拒否するのは目立ちたいから

輸血治療の普及を世界中に推進しているエホバの証人

紙一重でエホバの証人に殺されていた子供

子どもの生に対する現実感の欠如をもたらすのは、エホバの証人の教理「復活」。エホバの証人として正しく生きれば「復活」して、永遠に生きられる。という悪い冗談。輸血という戒律違反を犯せば「永遠の命」や「復活」は没収。

この冗談を真に受けて、エホバの証人たちは現世の生を軽んじ、ありもしない復活に命をかける(捨てる)という暴挙に出る。この暴挙に巻き込まれる恐れが、子どもの頃の私にもあった。

エホバの証人の思考状態はひたすら一方通行で進んでいく、すごろくと同じ。ものみの塔にマインドコントロールされているので、AならばB、BならばCと行動がすべて事前に決まっている。

人生ってそんな人生ゲームみたいなモノじゃない。自分の決断と行動が思ってもない出会いや驚きの展開を呼ぶ。そして、さらに自分で決断と行動。その繰り返し。すると数年経つと予想もしなかった地点に立っている。

エホバの証人にはこれがなく、行動のすべては予定調和。ものみの塔のコントロール下。良いことが起こればエホバ、悪いことが起こればサタン。少しでもものみの塔を批判する輩がいれば背教者なので絶対忌避。異教の行事や輸血は絶対にダメ。

この一方通行すごろくで、子どもの私も輸血拒否で殺されていた危険があった。偶然サバイバルした者と川崎事件のように死んでいった者。その差は紙一重。偶然生き残った者の務めとして、ものみの塔というカルトを糾弾している。


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