09.エホバという猛毒が抜けない20代

マインドコントロールが解けて惰性で生きる元エホバの証人2世

西暦2003年頃、私は20代前半だった。私は生まれながらのエホバの証人2世で、二十年もの間、ものみの塔協会の深い洗脳下にあったのだが、遂にそのマインドコントロール状態から解放。

天にエホバという神がいて、ハルマゲドンというこの世の終わりは近い、ずっとそう信じ込んでいた。しかし洗脳が解けて、それらは全部、ものみの塔協会の虚偽だと気付く。

私は、20才を過ぎて、自分の根幹を失ってしまった。どうやって生きていったら良いのか、何をファーストプライオリティとすべきなのか全く不明。生まれたての赤ん坊状態になってしまった。

この後、私は惰性で生き始める。吸っていたタバコを、そのまま吸い続けたのが、その象徴。なぜタバコを吸い始め、なぜ吸い続けるのか?そのメリット、デメリット、やめた場合のメリット、デメリットは?

自身の根幹を失ったのだから、一から全部考えるべきだったのに、私はそれをせず、惰性的な生活を続けた。

心の底から、ものみの塔協会が憎かったし、ものみの塔協会のせいで失った家族のことは悲しかった。とはいえ、ハルマゲドンで明日にでも即死という恐れはなくなった。これは喜びだったし、洗脳が解けたという興奮状態にあった。

そのため、何かをじっくり考えるというよりは、そのまま目先の楽しさを享受する安易な選択をしてしまった。翌日から会社に行き、終業後はパチンコ屋に行き、勝てば飲みに行くという享楽的な生活。

新しい人生の指針が何とも”しょぼい”反エホバ思想

そういった生活を続けていくうちに、自分の中にまた根っこと呼べるものが生え始めた。反エホバである。反ものみの塔協会という思想。嘘つき集団を否定し、奴らの考え方と正反対の生き方をしなければならない。という考え。

私は、この考えが根ざすと同時に、その生き方を実行し始めた。これが安易でいけなかった。よく考えるべきだった。反エホバ!反エホバ!と強く意識している時点で、洗脳されていた時と何ら変わらない。エホバに振り回され、本来の自分を見失っている。結局、エホバという猛毒が心中深く蝕んでいる。

元エホバの証人としての傷が深いあいだは、ものみの塔協会なんて無視しておけばいい。積極的な姿勢で無視して、新しいメンターを探そう。それに騙されても良い。騙されたと気付ける考え方、思考法を養えたと思えばそれば良い。

まずはエホバから離れることが大事。そして、新しい指針は宗教ではない方が健全。会社で出世している人だったり、世の中の成功者だったり、歴史上の偉人だったり。

基本、宗教は見えないものを崇めるので、一見怪しげ。それを補うために深い自己批判・自省、もしくは欺瞞、まやかし、ごまかし・偽善が必要になる。前者はまともな宗教で、後者はエホバの証人を代表とするカルト。

エホバの証人をやめて、心が定まらない間は自身を見つめることは叶わない。そんな余裕はないから。そして、エホバの証人らしい決めつけ思想が抜けきっていない間に、新興宗教系のカルトに触れるのは非常に危険。またすぐにハマってしまう。

よって、宗教からは距離を置き、目に見える成果を上げている人・団体を指針として人生を再構築すべき。私はこれをやらずに、自分の心の声に従い、指針を定めた。自分の心の声に従う。これは何の問題もないのだが、私の心の声は「反エホバ、反ものみの塔」、これは本当の自分の心の声ではなかった。

強く否定することは、否定対象に縛られ、心揺さぶられているということ。すなわち、「反エホバ」は「エホバ」そのもの。まだまた深い洗脳状態にいるのと何ら変わらなかった。

不真面目であろうとする生真面目な元エホバの証人2世

エホバの証人=真面目。私のイメージはこれ。お堅くて面白くない奴ら。子どもの頃から、そんなエホバの証人たちに囲まれて生きてきた。

ものみの塔協会は自身の戒律に従うことを強制するが、その戒律に反しない限りは上位の権威に服するようにと教えている。上位の権威とは、親、年長者から始まり、学校の先生、校則、法律、政治権力と続く。既存の権力構造すべて。

既存の権力は神エホバが一旦は認めているものであり、上位の権威に服することはエホバの主権に従うことである。というロジック。

このため、エホバの証人は法律をはじめ、世の中の決まりを遵守する。エホバの証人の教理に背かない限りはという条件つきになるが。兵役であるとか国旗掲揚、選挙などには参加しないのだが、普通に生活している限りは良市民に見える。

さらにものみの塔協会は模範的な市民であれとも教えており、エホバの証人とは変わってはいるけれども、生活態度は至って真面目。

この真面目なエホバの証人に対して、私は不真面目にならなければならない、反エホバという生き方をするためには、真面目であってはいけないという考えに至る。私は20才を過ぎて、非ものみの塔を掲げ、不良になってしまった。

何とも浅はかな思考回路なのだが、しょせん寸前まで生まれてこの方マインドコントロール下に会った人間の考えること。これが限界。吸っていたタバコも継続し、ギャンブル、過度の飲酒、乱れた性生活、エホバの証人が嫌うものを好んで周囲に引き寄せた。

洗脳状態にあったときは、死ぬことが怖くなかった。どうせハルマゲドンで明日にでもやられると思っていたから。それまでは事故って死ぬのが怖くなくて、猛スピードで車を走らせていたのだが、この頃はあえて法に反するため、スピード違反を繰り返した。払った罰金よ。返って来いと今では思う。

この頃の話で滑稽なのが、私は不真面目であるということに、きわめて真面目に几帳面に取り組んでいたこと。何をするにも如何にすれば不真面目か?エホバの証人らしくないか?と考えていた。この生真面目さこそがエホバの証人的思考。

エホバの証人をやめたらひたすら考え続けろ

エホバの証人をやめたら、まずすべきこと。自由を満喫するのも良い。だけど、そうしながらひたすら考えるべき。でないと、気付かない間にどうしても心中に蝕むエホバという毒が体を巡る。また思考が停止する。

タバコを吸い続けるなら、なぜ吸い続けるのか考えろ。まず吸い始めた理由は?吸い始めた理由は興味。エホバの証人に禁止されているものへの関心。タバコは金はかかるしどう考えても健康に悪い。

だが健康は損なっても、どうせハルマゲドンで死ぬのなら同じこと。それなら吸い続けよう。金がなくなるが、貯金したって仕方ない。ハルマゲドンまでに使いきれない金は必要ない。それならばタバコを吸い続ければ良い。

だが、ハルマゲドンは来ないとマインドコントロールから解放された。価値観ががらっと変わってしまった。タバコを吸い続けるのなら、吸い続ける理由を考えなければならなかった。

明日にでも死なないのなら、金も健康も貴重ではないか。タバコを吸っていればエホバの証人っぽくないからと、そんなつまらない理由で私はタバコを吸い続けた。

脱ものみの塔というせっかくの人生の転換点を迎えたのだ。組織を脱けるのに相当なエネルギーを使っただろうが、エホバの証人をやめた瞬間から、しっかりと物事を考える癖をつけるべき。でないと、ものみの塔的思考回路にやられて、人生の岐路でまたもや誤った方向へ進むことになる。

何々でなければならないというエホバの証人的思考停止状態

20代前半の頃、私は普通の会社員だった。就職氷河期で、なおかつ私は短大卒に過ぎなかったのだが、難なく安定した会社に就職していた。だが、これではいかんと私は考えた。普通であったり、安定であったり、こんな生き方ではいけないと私は思い込む。

なぜなら、真面目な会社員というのは、エホバの証人っぽいから。エホバの証人は会社員にはあまりならないので、真面目な○○というのは、エホバの証人っぽいから。というのが正しい。

エホバの証人のような、真面目な生き方をしてはいけないという強迫観念に私は囚われていた。反エホバ思想者として不真面目であらねばならない!私はこう思い込んでいた。

もはやこれでは、ものみの塔協会の洗脳下にあったときと何ら変わらない。何々でなければならない、何々しなければならないというのは、考えるのを止め、楽な方へ楽な方へとただ邁進しているだけ。思考停止のマインドコントロール状態の延長にある。

私はものみの塔協会のマインドコントロール下にあった。これは20年間に渡る。20代前半にして、ようやくマインドコントロールから自由になった矢先、私はものみの塔協会の逆マインドコントロール状態に陥ってしまった。

パチプロになったエホバの証人

私はスパッと会社を辞め、パチスロで生計を立てていくという大博打に出る。ギャンブルはエホバの証人が嫌うものだし、パチプロなんて不真面目さの極み。私の非ものみの塔活動は極限に達した。

とはいえ、毎日パチスロをするというのも楽ではない。勝てる店、出る台を奪取するために遠方に行ったり、朝早くから並んだりしなければならないので、パチプロの朝は早い。夜も遅くまでパチンコ屋にいなければならない。翌日、打つ台を決めなければならないから。

意外にも、私はパチプロとして規則正しい生活を送るはめになってしまう。真面目であってはいけないと、反エホバの証人的生き方としてパチプロになったはずなのに。

そもそも、パチプロのなかにも、真面目な奴から相当にイカれた奴までいる。エホバの証人の中にも、生真面目な奴から、ちょっとふざけた奴、私のように堕ちる所まで堕ちた人間まで存在する。一概に何々ならエホバの証人らしくないなどと言えるものではない

ものみの塔協会に対する正しい復讐の方法

20代前半の私は、いかにエホバに証人らしくない生き方をするかということだけに集中していた。非エホバ、否ものみの塔。これは私にとって、ものみの塔協会への復讐だった。

15年もの歳月を、エホバの証人2世の子どもとして過ごした人生の恥部、失った家族。私は、反ものみの塔的生き方をすることで、その復讐をしているつもりだった。

こんなことを考えたのは、つい最近、パチプロだった頃から15年以上経った現在の話。そして、今の私はものみの塔協会に対する正しい復讐の方法についても考え始めている。ものみの塔協会への復讐の方法は3つある。

まず一つ目はものみの塔協会に縛られないこと。プラス方向、マイナス方向どちらにも。当然、プラス方向、ものみの塔協会の思い通りに洗脳されるのは論外。かつての私のように、マイナス方向、反エホバ思想に染まって、暴走して道を踏み外すのもNG。

これこそ、ものみの塔協会の思うつぼ。エホバの証人をやめると、あんなサタン的な未来が待っていると言われる。それでは何の復讐にもならない。

復讐としてできること二つ目は楽しく生き続けること。自分の本当にやりたいこと、心躍ることができれば、楽しい。その笑顔がものみの塔協会に対する復讐になる。エホバの証人をやめて良かった。今が楽しいし、寿命までの将来を存分に生きる。そう思えることが、ものみの塔協会に対する何よりの復讐。

そういう生き方をしていれば、現役の信者もこちら側に寄って来る。脱塔に近づく。そうしてエホバの証人信者を限りなくゼロに近づける。その時にものみの塔協会に対する復讐が完了する。これが最後の復讐の方法、ものみの塔を崩壊させること。

強く否定することで逆にエホバに縛られる

私は20代前半でものみの塔協会のマインドコントロールが解け、エホバの証人の信じるエホバという神は幻想だし、彼らの唱える形でのハルマゲドンは勃発しないし、楽園で永遠の命を享受するというのもエホバの証人の作り話だと気付いた。

しかし、こう理屈では解っていても、この頃の私の頭の中は未だにものみの塔協会の影響を深く受けていた。エホバの証人の行動指針やものの考え方は、自分でも気付かないほどに深く染み付いていた。私の20代はこうしてものみの塔協会から完全に自由になることなく消化されていった。

私の20代は、非エホバ的な生き方をしなければならないという強迫観念にとらわれ無法、無頼として過ごすことになった。この生活態度に伴い、私は多大な犠牲を支払うことになる

エホバの証人を嫌い、あの穏やかさや親切、愛、喜びと言った彼らが一応は重視している美徳とも言える概念をも私は否定していた。喫煙、過度の飲酒、ギャンブル、上位の権威や目上の人々に対する反発、そういった反ものみの塔的な思想や行動を追い求めた。

それは本来の私の望みや考えではなく、単純にエホバの証人の2世であったという過去を否定することから派生したもの。

エホバの証人的生き方をしないでおこうと思えば思うほど、ものみの塔の教理や彼らの生き方に注目して、それとは逆をいかなければいけない。私の20代は、反発するほど逆にエホバに縛られるという状況に陥っていた。

私は交通事故で車を3台も廃車にしている。私は、自分がハルマゲドンで死ぬと、14才でエホバの証人をやめてから20才を過ぎるまで信じていた。どうせ、いつか不条理に死ぬのだから、事故って死んでも構わない、と考え、ありえないスピードで車を走らせていた。

エホバの証人は輸血拒否という信条で生命を冒涜しているが、形式上は神から頂いた命や身体を大事にするように教えている。その教理を否定する暴走行為は反エホバ的なものを追い求めていた私にとってうってつけだった。

ものみの塔は、教理に反しない限りは、という条件付きで一応は上位の権威に服することを信者に要求している。スピード違反の暴走行為は、この頃の反ものみの塔という私の生き方にマッチしていた。

夜明けの気付きと3度目の交通事故

一晩中、片側2車線の国道をメーターが振り切れるほどの速度で走り回っていたことがある。翌朝、朝日を浴びながら、ふと考えた。あのスピードで何かに激突すれば死は免れないだろうと。

まだ死にたくないと私はそのとき切実に思った。いつか来るハルマゲドンで私は確実に滅ぼされるのだが、それでもまだ生きていたいと思った。命を粗末にすることで、現在の生は短いゆえに貴重であるとようやく気付いた。

この時より前に私は2度、交通事故で車を大破させている。その2回とも車の前方部分が完全に潰れるような事故で、私自身が無傷で負傷者が誰もいなかったのは驚きとも言える。

3度目に車を全損させたのは、夜明けに生きていたいと実感したこの時から10年後だった。

朝の光を浴びながら、せめてハルマゲドンで滅ぼされるまで生きていたいと実感したときから10年後、私は3度目の交通事故を起こす。その10年の間に、エホバの証人の教理は全部がデタラメだったと私は気付く。

これはインターネットのおかげ。ハルマゲドンは絶対に来ないと、ものみの塔協会の嘘に気付いた。とにかく突然、青天の霹靂とも言える神の裁きにより死ぬことはないと私は確信したのだが、だからと言って何をして良いのか、何を始めれば良いのか全く解らなかった。

そして、生きていたいと実感したあの夜明けの感覚を忘れ始めていた。急に命が寿命まで実質上の無期限に延長されたから。

私が起こした3回目の事故は凄まじかった。結構なスピードが出ていた状態から縁石を飛び越えて民家の外壁をえぐり、それから40mほど車が進んだ所でやっと停まった。事故車を引き上げに来てくれたJAFの人が

「こんなひどい事故、久しぶりに見ました」と、無傷の私を見て

「鉄人ですか?」と驚いていたのである。

私はこの時、飲酒運転で無謀とも言えるスピードを出していた。木端微塵になった車を見て、こんなことを続けていたら本当にオレは死んでしまうなと思った。

そして、自分が死ぬだけならまだしも、そこら辺を歩いているまるで無関係な人の命まで奪いかねないと、事故を起こしてようやく気付いた。その無関係な人々の生命を、私は心の何処かでハルマゲドンで奪われると信じて疑わなかった命と同じくらいに軽んじていた。