04.エホバの証人2世、灰色の小学校生活

田舎社会で悪目立ちする、エホバの証人2世の子ども

私は、小学校の高学年になるときに引っ越して転校生になった。両親の田舎に引っ込むような形での引っ越し。

転校先では、エホバの証人2世であるということを、ゼロから先生や同級生に証言しなければならない。

証言というのは、自分が強要されている信仰のことを話すこと。信仰ゆえにできないことが多く、実生活に不都合が生じることを話すこと。

引っ越した先の田舎町では、小学校の1年生から6年生までほぼ全員が顔見知り。人口が圧倒的に少ない。各学年にかろうじて1クラスあるかないかという強烈な田舎。こんな環境に置かれたエホバの証人の子どもは、超有名人の変わり者扱いされる。

当時、20世紀末の田舎社会には、信仰の自由というモノに理解は無かった。引っ越して来たのだから、地元の祭りや行事に参加するのは当然という空気。

引っ越し前に住んでいた郊外都市では、地元の祭りはただのフェスティバル。子どもが積極的に参加する雰囲気は無かった。露店が並んでいて、そこに遊びに行くぐらい。あとは盆踊りがあるだけ。

しかし、引っ越した先の田舎町では、地元の子どもはもれなくお祭りに参加し、古典芸能を舞ったり、神輿を担いだりしなければならなかった。

秋祭りのための練習を春頃から始める。その指導は地元の大人が行う。これが田舎のコミュニティになっている。それに参加しないということは、私の家族そのものが地域のコミュニティを拒絶することを意味している。

無論、深いマインドコントロール状態の両親はそんなことを気にもしない。しかし、小学校高学年で多感な年頃だった私は、クラスメイトやその親たちの視線が痛くてたまらなかった。

人口密度の小さな田舎で、これほどの変わり者というのはとても目立つ。すぐに有名人一家になってしまった。学校でも変わり者扱いを受ける。思春期に入りつつあった私にとって、これは致命的な屈辱だった。

田舎に引っ越したことによって、私は過酷な環境に置かれることになった。しかし、完璧なマインドコントロール状態にあり、狂信的なエホバの証人だった両親にとって、過酷な環境は喜びだった。

エホバの証人にとって、信仰に対する理解の無い環境で証言することは喜び。エホバ神が与えて下さった試練であり、そういう理解の少ない所こそ、エホバの証人にとって”必要の大きな所”であるという考え方。

そういう環境で布教活動をできるのは特権であり、喜ぶべきことと考えていた。カルト教団に必要とされていると感じることで、小さな自尊心をくすぐられる。これが中毒性を帯びている。

このようにしてエホバの証人は、ものみの塔にとって都合の良い考え方をするように思考を操作される。

エホバの証人の学校生活は、尋常でないストレス

エホバの証人は、自身を真理を語る唯一の組織と自称し、他の宗教すべてを異教・異端とみなし攻撃している。他の宗教はもちろん、キリスト教の他のすべての宗派を否定。本来はエホバの証人が異端そのものなので、滑稽な話。

クリスマスはキリスト教の行事なのだが、エホバの証人は異端の行事として禁止している。節分や七夕も、当然のように禁止。私の子どもの頃はなかったのだが、最近騒がれるようになったイースターやハロウィンも禁止。

当然、エホバの証人2世の子どもにその被害が及ぶ。クリスマス、節分、七夕、給食前の合掌、そういった宗教臭のするすべての学校行事に参加することができない。

他の宗教や思想を一切認めない、という了見の狭さがエホバの証人の凝り固まった思考を育んでいる。

給食の前の合掌も、日本の神仏への祈りのポーズと同じなのでNG。合掌しないだけならともかく、私はキリスト教ポーズで祈りを捧げなければなかったので、周囲から見ると明らかな変人。

特に、給食は毎日のことなので、子どもの私にとって非常に大きなストレスであり、辛い時間だった。エホバの証人の子どもに心休まる日は無い。給食の時間になると、私はよく腹痛を起こした。

合掌しないだけなら、まだマシ。エホバの証人は、食事の前に独自のスタイルで祈りを捧げなければならない。両手を握り合わせて、目を閉じるという、子どもながらに恥ずかしいスタイル。

心の中で「天におられます父エホバよ。今日のパンに感謝します。迫害にあっている南アフリカの兄弟姉妹に平穏が・・・云云かんぬん・・・イエスキリストの御名を通じて、アーメン」とやるのだ。

できるだけ早く終わるように、心の中で早口で唱えるのだが、これが終わる頃には、周囲の奇異の視線で、食欲も完全に失せる。エホバの証人をやめた後、初めての給食をものすごく美味しく感じたのをよく覚えている。

禁止事項の多い、エホバの証人の子ども

エホバの証人の戒律では、武術、選挙、国家や校歌の斉唱なども禁止。武術は柔剣道から相撲、騎馬戦まですべて禁止。エホバの証人の使っている新世界訳聖書に書いてある

彼らはもはや戦いを学ばない

の一節によるもの。そのため、エホバの証人は徴兵にも一切応じない。

選挙は、小学校の選挙もNG、学級委員から生徒会まですべて禁止。国歌、校歌も歌わないし、応援活動などもできない。

その都度、学校の先生へ信仰を証言し、できませんと言わねばならない。これが、小さな子どもに求められる。私にとって途方もないストレスだった。

学校の先生は、私が何らかの行事に参加できない、と言うたびに干渉してきた。この行事に宗教性は無いのではないか?と。しかし、小学生だった私がエホバの証人の掟を破ったらどうなったか?

親に怒られるだけでは済まない。エホバの証人の教理に意図的に背くということは、狂信的な信者である親との決別を意味する。

親の保護無しには生きられないし、親を捨てる覚悟もない。10才ちょっとでその覚悟は生まれようがない。人生の総量に占める、親と過ごしてきた時間の割合が大きすぎた。いまだに両親の愛情を必要としていた。親を捨てるに捨てきれなかった。

となると、親に秘密で、学校生活においてだけエホバの証人でない顔をするしかない。しかし、学校の先生はその秘密の保持を保証できない。親に黙っていて、後でばれたときに自己の保身ができないから。

エホバの証人の親は怒り狂いますよ。子どもに異教の行事を無理やり押し付けたんじゃないのかと。

このため、私は学校の先生のことを「覚悟も無いのに、仕事だから念のため干渉してくるだけの、無能な地方公務員」程度に捉えていた。そもそも、こんな過酷な状況を普通の大人に想像しろ、というのが難しい。

恐怖心を煽り、エホバの証人の子どもを洗脳するものみの塔

田舎へ引っ込んだ両親は、狂信度を高め、エホバの証人活動にのめり込んでいった。父は会衆の長老になり、母は正規開拓者として布教活動に従事。

私もそれに伴い、エホバの証人活動を中心とした小学校生活を送ることになる。もちろん強制的に。

内心、嫌だったが、小学生の私が親に抵抗する術は無かった。兄弟もおらず、両親ともにエホバの証人だった。「今日だけは集会に行きたくない」、こう言い出すことすらできなかった。懲らしめのムチという名の体罰が待っているから。

体罰が嫌なのも理由の一つではあったが、マインドコントロール状態の両親であっても、彼らから愛情を得なければ、物質的にも精神的にも生きていけなかった。

また、物心ついた頃からものみの塔に洗脳された影響も非常に大きい。

天にはエホバという愛に溢れた許しの神がいるのだが、彼のその許しの精神も間もなく限界に達する。それで、自身の創造物すべてを一旦滅ぼし尽くそうとしている。その大患難を生き残るためには、しこしことエホバの証人の集会に通い続け、「終わりの日が近い」と伝道して回らなければならない。

私は、ものみの塔によってそう信じ込まされていた。とても、深く深く。恐怖心を煽られることによって洗脳されていた。

エホバの証人の子どもに生まれた不幸

エホバの証人の戒律を破ったことが親に発覚した場合、懲らしめという不幸を被る。懲らしめとは主に体罰のことで、完全なる児童虐待。現在なら家庭内での体罰も容認されないのだが、私が子どもだったのは20世紀末のこと。

しかし、現在でも体罰に関しては、エホバの証人の家庭内と秘密主義の王国会館は治外法権。

愛のムチと称して、ベルトや定規などでお尻を引っぱたかれているはず。素肌に打たれるベルトは痛いし、ズボンを下ろしてお尻を出すのはとても屈辱的だった。

給食の前に合掌をして何とか周囲の痛い視線を和らげたい。そう思ったことが何度もある。両親に対して、それを秘密にできればと。しかし、その秘密が守られることはない。先生が黙っていてくれたとしても、校内にエホバの証人がいれば、彼らに告げ口される。

小学校の頃は、同じクラスにエホバの証人の子どもはいなかったのだが、校内には他の学年に2人。中学生になると同学年に私をいれて3人。彼らと同じクラスになることもあった。たかが数百人しかいない、小さな田舎の学校なのに。全国津々浦々まで蝕む、ものみの塔の毒牙。

給食の時間に私が合掌していれば、たちまちエホバの証人の子どもとその親を通じて、私が戒律を破ったことが両親に伝わる。エホバの証人は尋常でなく噂話が好き。相互監視による密告社会が、子どもから大人のあいだまで形成されている。

小学校高学年のこの頃には、エホバの証人2世という自分の境遇が不幸以外の何物でもない、と確信していた。他人と違うということがとても嫌だった。

周囲の普通の子どものように、クリスマス会やバレンタイン、節分や地元のお祭り、子ども会のキャンプに参加したかった。少年野球のチームにも入りたかった。

しかし、そんな希望を両親に告げようものなら、両親の大きな失望と体罰が待っている。どうしようもなかった。早く大人になって独立したら、何とかエホバの証人をやめることができるだろう、という漠然とした希望しかなかった。

小学校高学年になると、自分の置かれた状況が圧倒的な不運だと思い始めた。エホバの証人2世である限り、明日は何ら楽しみでなく、日常の景色は灰色だった。

週に3回、抜群に退屈なエホバの証人の王国会館での集会がある。この日の放課後は友達と遊ぶことは許されない。集会の予習をしなければならないから。

この集会では、1ヶ月に1回程度の間隔で割り当てというモノが回って来る。神権宣教学校というものみの塔の教育プログラムに従い、自分で考えた5分程度の話を、信者の前でしなければならない。この準備も大変だった。

集会の日は友達と遊ぶこともできない。集会の無い日でもエホバの証人でない友達と遊ぶことに対して、両親は良い顔をしなかった。集会の無い土曜日も、学校が終わった午後になるとエホバの証人の布教活動へ行かなければならなかった。

私が小学生の頃は、土曜日の午前中はまだ学校があった。小学校の途中で学校も完全週休2日制になったのだが、私にとっては嬉しくも何ともなかった。エホバの証人の布教活動に参加する時間が増えるだけだから。

楽しみなど何もない、小学校生活だった。

エホバの証人の子ども、体罰からの卒業

小学校6年生のときに好きな女の子ができた。しかし、初恋までも、ものみの塔に妨害される。エホバの証人2世である限り、異性との交際など小学生や中学生には認められない。

幼い頃から何にも与えられなかった反動なのか、私の独占欲は異常に強かった。とにかく、その好きな女の子を誰にもとられたくないという強い衝動に駆られた。

エホバの証人である限り、デートをしたり付き合ったりなどできるはずがない。それでも私は、その女の子に告白してしまった。これが親にバレようモノなら、とんでもない目にあいかねない。

よく覚えていないのだが、小学校6年生にもなると、体罰は既に受けていなかったのかも知れない。

お尻を叩かれても我慢して泣かない。反抗的な目で痛みを耐える。これができればエホバの証人の体罰は終了

自称愛のムチを振るおうとする、母親よりも力が強い。体罰を甘んじて受ける必要もない。とはいえ、中学生になるかならないかくらいの年齢で、親から独立して生きて行けるほどの覚悟は、私には無かった。

1990年代のこの頃、エホバの証人の子どもでも高校までは誰もが卒業していた。そのくらいまでは親元にとどまらざるを得ない、と私も思っていた。

不都合の多い、エホバの証人2世の恋愛

私は、初恋相手に対して強烈な執着心と独占欲を持つようになっていた。これは、幼い頃からものみの塔によって過剰な制限を受けた結果。何も与えられなかったゆえに、あらゆるヒト・モノを強く欲するようになる。

引き下がれなくなった私は、意を決めて告白に至る。周囲の女の子が根回しをしてくれたのでラブレターを書いた。親に見つかれば、とんでもない懲らしめが待っているし、実際にどうやって交際するか、というビジョンも知識も全く無かった。

とりあえず前へ進むことしかできない状態にだった。手の届きそうな初恋を、みすみす逃すことはできなかった。待望のラブレターの回答はOK、私も好きだというような内容だった。

一旦は上手くいったものの、小学生の私には、その後の子どもっぽい交際というモノが上手くできなかった。

その子から誕生日会やクリスマス会に呼ばれても、堂々と行くことはできない。そういったイベントは、ものみの塔の戒律で禁止されているから。

可能なのはプレゼントの交換くらい。本当はバレンタインのお返しなども(もちろん貰うことも)、エホバの証人には禁じられている。親に隠れて、クリスマスや誕生日、ホワイトデーといった行事ごとに、プレゼントを買いに隣町まで出かけていた。

息子の恋愛さえも、エホバの証人にとっては効果的な伝道道具

そうしているあいだに都合の悪いことが起こり始めた。初恋相手の女の子の母親に対して、私の母がエホバの証人の伝道をし始めた。勝手に伝道に行って、断られて帰って来てくれたら良かったものの、先方の母親が多少なりとも食いついてしまった。

そのため、私の母親が足繁く通い、ものみの塔研究が行われていた。先方にしてみれば、娘が好きな男の子との、母親どうしの付き合いという側面もあった。

今となって考えてみると、これは修羅場とも言える絶望的な状態。

自分の母親が、好きな女の子の家庭をカルト宗教に引きずり込もうとしている。強烈な罪深さと最悪な状況。

この頃の私は、エホバの証人が家族や人格を崩壊させるほどの悪教であるとは知らず、真理、真実だと思い込んでいた。幼い頃からの洗脳は恐ろしい。一切の客観的視線を挟むことができない。

私の母は、子どもどうしが特別に仲のいい同級生という、効果的な要因を利用して、相手の家庭をエホバの証人という地獄に引き入れようとしていた。

恋愛禁止のエホバの証人2世

私が小学校6年生のときの初恋の話。私の母が、初恋相手の家にものみの塔の勧誘のために通っていた。双方の親で週に1度、お茶を飲むついでにものみの塔研究が行われている。

私の母は、筋金入りのエホバの証人。先方の母親は感じの良い人柄そのままに、私の母の話を聞いてあげているという状態。思春期の子どもにとっては最低最悪の状況。抜群の恥ずかしさ。

さらに、これでは子どもどうしの情報が親に筒抜けになってしまう。事実、その形跡が感じられることがあった。

翌日がその女の子の誕生日だか何かで、親に隠れてプレゼントを用意したことがあった。これに勘付いた母が、このプレゼント行為を妨害してきた。そもそも、

エホバの証人2世は恋愛が禁止。成人しても、しばらくは異性との交際は認められない。また、誕生日を祝うことも禁止。他にもクリスマス、バレンタインといったプレゼントの交換も厳禁。よって、初恋相手には、親に隠れてプレゼントを渡すしかない。

妨害される、エホバの証人2世の初恋

エホバの証人の集会から帰ってきたあとの夜、初恋相手へのプレゼントに添えるメッセージを書きたいと思って、自分の部屋にこもった。しかし、そこへすかさず母親が入ってくる。そして、何をしているのか?と執拗に聞いてくる。

プレゼントやメッセージカードはしかるべき場所に隠していたのだが、あまりにも不自然な状態。小学生の私には、そんな夜更けに勉強する習慣はなく、言い逃れが難しい状態。明らかに先読みされていた。

しかし、女の子への何らかのプレゼントがあることを認めると、来年から中学生という年齢にして、おそらく体罰の対象となる。私の家は、父が夜勤だったので、父の帰宅後の翌朝にひどい目にあうことになる。

到底親に発覚するわけにはいかないので、ここは強く否定するしかなかった。否定というか、何でもないから放っておいてくれ、という反抗期風の抵抗しかできなかったのだが。

エホバの証人2世の一過性

初恋相手とはお互いに同じ中学校に進学。中学校を卒業するまで、その女の子とは微妙な関係が続いた。双方の親がものみの塔研究を通じてつながっていたのもあるし、私が子どもすぎて何もできなかったこともある。とくに進展のないまま中学校生活を終えた。

幸運だったのは、母親どうしのものみの塔研究の方も、ほとんど進展しなかったこと。相手の家族を、カルトの泥沼に引きずり込むことにならなかったのは不幸中の、最大限の幸い。

中学校を卒業するときには、私はエホバの証人をやめたいという願望を既に実現させていた。だから、堂々と彼女と付き合うこともできた。

ただ、そのときには私の心が彼女から離れてしまっていた。お互いに違う高校へ進学か決まっていた。それで、私には「どうせ付き合うなら新しい環境でエホバの証人だった過去を知られていない人の方が良い」という思いもあった。

常に私の人生にあるのはこの一過性。ただただ、その場を通過していく。「いつまでもここにはいない」という考えが、私のいる場所や周囲の人々に対しての丁重さ、丁寧さ、思いやりを損なわせてきた。

その場にいながら、彼らは通過していく者であり、一旦、離れれば二度と接することはないという杜撰な対応をしてしまう。

エホバの証人2世だった時からそうだった。いつか必ずエホバの証人をやめるのだから、とエホバの証人の会衆内の人々に乱雑な対応をしていた。

人生は常に一期一会、それゆえにその瞬間、その一瞬にベストな対応、集中力で臨まなければならない。二度と会わないから粗雑にやり過ごすのでなく、二度と会えないからこそ後悔のない対応をしなければならない。

そうしなかったおかげで、私は初恋相手に始まり、何人かの恋愛相手に対して、後味の悪さしかない。

続きは、05.ハルマゲドンと永遠の命という悪い冗談