子どもを持つ親へ仕掛けられるエホバの証人の罠
私と両親の三人家族の中で、最初にエホバの証人の王国会館に通い始めたのは母だった。まず、母がエホバの証人の餌食になった。さらに私も、母によってエホバの証人の王国会館へ連行されることになった。
活発な子どもだった私が王国会館で大人しくしていられるはずが無かった。もったいぶったエホバの証人の集会が、2時間も開かれる。そんな場所へいきなり連れて行かれて、ずっと座っていられるはずがない。
静かにできない私を恥ずかしく思ったのか、王国会館に来ている他の子どもの行儀よさと比較して不安になったのか、母は、私と父に向かって怒りと不安をぶちまけた。
とある薄曇りの日曜日の午後、王国会館から帰った後のこと。「なんで集会中に静かにできないのか!」「精神的に問題があるんじゃないのか!」と、母が泣き叫び始める。
エホバの証人の子どもが、同年代の子どもに比べて大人しく、お利口に見えるのは調教されているから。調教方向は手痛い体罰。鞭打ち。サーカスの動物と同じ。王国会館で騒げば、懲らしめ部屋でお尻をベルトや素手で引っ叩かれる。
体罰は、エホバの証人には懲らしめと呼ばれ推奨されている。その痛みの代償で、ロボットのようなエホバの証人の子どもたちが量産されている。子育てに疲れ、悩む親は、エホバの証人の王国会館で製造されたロボットを見て、この宗教に魅力を感じてしまう。
エホバの証人の子どもに対する、懲らしめという児童虐待
エホバの証人の王国会館には、信者の親によって、多くの子どもが連れて来られている。彼らは、壇上からされる下らない話を、椅子に座ってじっと聴いていなければならない。
子どもの私にとっては、というかすべての子どもにとってだが、これは大変な苦痛だった。活発な子どもだった私は、1分と同じ場所に座っていられなかった。
しかし、驚くべきことに王国会館に連れてこられているエホバの証人の子どもたちは、2時間もの集会のあいだ、大人しく座り話を聞いている。しかも、注解(※)と呼ばれる、壇上からされる質問に対しての適切な回答まで行う。
※2023年追記、注解は現在では「コメント」と呼ばれている
この理由は明快。子どせたちは激しい体罰を受け、恐怖心から見た目にお利口な行動をとっているだけ。エホバの証人たちは、体罰を懲らしめの鞭と呼び、子どもの教育にとって非常に重要なモノだとものみの塔から教え込まれている。
懲らしめの鞭に使われる道具は様々、素手だったり、布団叩き、ベルト、ゴムホースまで様々。
エホバの証人の親の間では、鞭に使う道具の情報共有がされている。あれは効く、あれは意外と痛くない、定規だとお尻に跡が残るからNGだとか。まるで、プレイに使う道具を選んでいる変態集団。
エホバの証人2世というロボット
エホバの証人によって、いまだ信者でなかった父の懐柔が始まる。まずは、同年代の似たような神権家族を送り込んでくる。
神権家族というのは、両親がともにエホバの証人で、必然的に子どもたちもエホバの証人2世として育てられる家庭のこと。
父親どうしが”聖書研究”をしている間に子ども達で遊ばせる。その子どもも、少し大きくなると、同じく聖書研究と称して、子ども向けのものみの塔本を読まされる。
同年代のエホバの証人2世に初めて会ったとき、大きな衝撃を受けたことを覚えている。近所の子どもたちと全然違う。大人びていて、言葉使いが尋常でなく綺麗。
「僕と一緒に遊びましょうか」と、初対面の幼児に言われた。まさにエホバの証人2世ロボット。
ものみの塔研究と、非信者の父親の攻略
エホバの証人の家庭で行われる聖書研究だが、これは決して聖書を研究するわけではない。エホバの証人が”聖書研究”と言うのは詭弁。実際は、ものみの塔協会が発刊している出版物を読んで、質疑応答を繰り返す。
エホバの証人の使っている聖書も、新世界訳というものみの塔に都合良く翻訳されたものだが、教団の出版物はもっと酷く、聖書の中から都合の良い部分を抜き出し、恣意的に解釈したモノ。
ものみの塔の出版物を、繰り返し繰り返し読み、設問に答えるのが、エホバの証人の”聖書研究”。正しく言い直すなら、”ものみの塔本研究”、つまりは、ものみの塔によるマインドコントロール教育。
ものみの塔研究が終わると、親子交えて、お茶を飲んでお菓子が出て、という状態になる。エホバの証人2世の子どもは、最初から最後まで礼儀正しく大人の話を聞いている。そんな
エホバの証人2世ロボットに比べて、自分の子どもは落ち着きも無く、行儀も悪い。非信者の父親が、こんな劣等感を抱き始めたときには既にアウト。
いつの間にか最後の砦だった父までが、エホバの証人組織に取り込まれている。私の家でも、この過程で父までものみの塔のマインドコントロール下に置かれてしまった。
悲しいエホバの証人2世の子ども
私の両親のように、我が子とエホバの証人の子どもとを比べてしまうと、いかにも、うちの子ができない。そういう風に見えてしまう。
私が親になった経験から言うと、自分の子どもを他人の子どもと比較することほど、愚かなことはない。
自分の子にも長所があり、よその子にも長所がある。まずは自分の子どもの長所を見つける。そしてそれを伸ばす。自分の子どもを見ずに、他人の子どもばかり見ているから、うちの子の悪い点ばかりが目につく。
子どもはそれぞれ違って良い。落ち着きがなくたって良い。子どもは元気いっぱいなモノ。意味もわからない大人の話を黙って聞いていられるはずがないし、その必要もない。それぞれに個性を持った子どもを比べてはいけない。
一見、エホバの証人2世の子どもは従順で大人しくしっかりしているように見える。しかし、実際はエホバの証人の教理に基づいて、必要以上に厳しく育てられているだけ。懲らしめの鞭という体罰による恐怖政治で押さえ込まれている、悲しい家族の産物。
私は、子どもとしての楽しみや子ども社会の中での自己の確立、そういったモノとは程遠い環境で育っていく。週に1回以上は、お尻をこっぴどく叩かれる懲らしめを受ける。私もエホバの証人2世ロボットへの道を歩み始めた。
そして、両親は狂信的なエホバの証人になっていく。父は会衆の長老という責任者になり、母親は正規開拓奉仕者になった。正規開拓奉仕者とは、年に1,000時間(※)もの時間をものみの塔の布教活動に捧げる人々。
※正規開拓奉仕者の月間布教時間ノルマの変遷
- 1999年より前:90時間(年間1,080時間)
- 1999年から :70時間(年間840時間)
- 2023年3月から:50時間(年間600時間)
小学校に入る前の私は、母の布教活動に連れ回された。雨の日も風の日も、極寒酷暑の中を家から家へと歩き、連れ回される。はっきり言って、これは嫌で嫌で仕方が無かった。
王国会館に通うのも苦痛だった。しかし、これを言ってしまうとエホバの証人2世の子どもには懲らしめと呼ばれる体罰が待っている。子どもの私は、大人しくものみの塔の活動に従事するしかなかった。
布教活動に連れ回されるエホバの証人2世の過酷な幼児生活
私は、幼稚園や保育園といった幼児教育を受けていない。同年代の幼児が、保育園で昼寝をしているような時間に、母によってエホバの証人の布教活動に連行されていた。
エホバの証人の布教活動は、信者たちが決まった場所に複数人で集まり、ペアを組んだり、親子だったりで、家から家へ呼び鈴を鳴らして周りまくる。
「ボランティア活動で来たのですが」と始め、信者の勧誘を行う。集合する場所、周るエリアは漏れがないよう、周到に計画されている。留守だった家は地図にマーキングされ、後日、留守宅訪問と称してやってくる。
これが雨でも雪でも炎天下でも、ひたすら家から家へと2時間から3時間も歩かされる。宮沢賢治かと。こんな修行僧のような生活を、喜びと感じる幼児がいるはずがない。
エホバの証人2世の子どもの、初めての違和感
私は小学校に入る直前の1980年代中頃に、1度目の引越しをする。入学予定の小学校だけ隣の校区に変わり、エホバの証人の会衆は変わらず。会衆とは、エホバの証人の地域毎のコミュニティのこと。メンバー100名ほどで構成される。
私は、幼稚園や保育園といった幼児教育を受けていないので、仲の良い友達との別れというようなものは無かった。
そもそもエホバの証人2世の幼児だった私にとっては、エホバの証人の世界がすべて。引越した先で小学校に入学した私は、初めてエホバの証人の外の社会に触れることになった。
引っ越す前、同じアパートに住んでいた男の子が地元のお祭りに行こうと”はっぴ”を来て誘いに来てくれたことがあった。
お祭りは、突き詰めると八百万の神々に対する感謝の行事。そのため、異教の行事として、エホバの証人にとって禁止事項。私は、母に遮られてお祭りに行くことだできなかった。
このとき、初めて感じたエホバの証人の子ども特有の違和感を、小学校生活では常に味わうことになった。
この違和感に気付いたときはすでに遅すぎ。両親は後戻りできるような健全な思考状態にない。完全にものみの塔のマインドコントロール下にあった。
子どもの私が何を言っても始まらない。待っているのは懲らしめと呼ばれる体罰だった。
エホバの証人2世の子ども、真夏の記憶
私は小さな頃に、無性に遊びたくなることが何度かあった。理由は、エホバの証人の2世として常に抑圧された厳しい環境にあったため。印象的に覚えているのは2回。
1度目は小学校に入る前のこと。暑い夏の日。自転車に乗れる年齢だったので、1人で家からちょっと離れた場所にある児童館に向かった。ちょうど昼のご飯時で、児童館には誰もいなかった。
私はたった1人、この児童館の体育館にあるトランポリンで延々とジャンプし続けた。母の隙をついて、自転車で家を飛び出した。家へ帰れば、すぐに午後からの布教活動に連れて行かれる。
何となく落ち着かない気持ちだった。それでも真夏の昼間に、暑い体育館の中で私はたった1人、無心にトランポリンで跳ね続けていた。
もう1回も同じく真夏の昼間のこと。これは小学1年生の夏休み。私は小学校に入学する直前に腕を骨折して、そのギブスが取れたのがこの初めての夏休み。ずっと体を動かすことができなかったストレスがあった。
またも家を自転車で抜け出して近所の公園へ行った。このときもちょうど昼食時だったため、公園には誰もいなかった。私はたった1人、暑い夏の日差しの中で猛烈にブランコをこぎ続けた。肘の包帯が痛々しかったのをよく覚えている。
夏休みだったので、午後からは母親と一緒にエホバの証人の布教活動に出かけなければならない。夕日が傾くまで、いつまでもいつまでも遊んでいることはできない。へとへとになるまでブランコをこいだら、良い加減に家に帰らなければならない。しかし、
このときの私は何もかもを忘れ、汗を流し無心でブランコをこぎ続けていた。
無意味にも思える子どもの遊びだが、これは私にとってとても重要な意味を持っていた。ものみの塔と親の束縛から、ブランコを無心でこいでいるこのときは、ほんの一瞬だけ自由になれた。
幼い頃の私は、ときおり無心で遊ぶことで何とか自分の精神状態を保っていた。ハメをはずすことは許されないが、エホバの証人として許される”ふさわしい”遊びを無心に行う。そうして、自分の子どもとしての欲求を発散していた。
友達といつまでもいつまでも遊ぶことはできない。常に、集会や布教活動の時間に追われているから。
また、”この世”の友達と遊べば、必ずエホバの証人として”ふさわしくない”遊びが混じってくる。ものみの塔の不可解な教理には禁止事項が尋常でなく多い。普通の遊びでも戒律に抵触することが多々ある。
幼いながらに私は、他の家の普通の子どもとは違うと実感していた。この世の友達と遊ぶには阻害要因が多すぎた。そもそも、親がエホバの証人でない学校の友達と遊ぶことについていい顔をしなかった。
こうしてたった1人で遊ぶことで、ようやく私は正気を保っていた。