「終了した秘儀」からの「万民キャンペーン」、そしてマインドコントロール

ものみの塔の脅迫

『良心の危機』第8章「正当化と脅迫」。本章も、ものみの塔本からの引用が多く読み進めるのが苦痛。基本的には前章と同じく、もはや伝統芸と化したものみの塔の予言ハズシの実態を、時を追いながら追求している。

ものみの塔の預言ハズシは伝統芸のごとくパターン化している。当初は断定的にイケイケで予言。しかし、その時が近づくと急ブレーキ。神の名を借りて断定した訳ではない、あくまで人間の見解なので間違うこともあると弱腰に。この繰り返し。

本章以降で強くなる傾向が信者に対する「脅迫」。信じられない者は、神の名を借りた組織に対する「忠誠心」が足りないと攻撃する。忠誠心が足りないとどうなるのか?待っているのは滅び。

誰もが無残に滅びたくはないので、信者たちはこの脅迫に従わざるを得ない。これがマインドコントロール。ものみの塔はマインドコントロールを用いてエホバの証人信者の思考・行動を操作する。こうして信者たちは思考・行動の自由をカルト塔協会に奪われる。

「終了した秘儀」からの「万民キャンペーン」

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信用に値しないと自身でも認めるものみの塔協会、当たらない予想屋

人間だから間違うというものみの塔協会は信用に値しない

『良心の危機』第7章「予言と独断」。本章の末尾部分でものみの塔の「目ざめよ!」誌1993年3月22日号が掲載されている。内容は、ものみの塔が予言をハズしまくったことに関して、偽預言者ではないという見苦しい弁明。

この「目ざめよ!」の1993年当時の私は、エホバの証人脱会決意を固めていた少年。中学生になる直前。この記事を覚えていないのは、ろくに読んでいなかったからか。脱会する数年後に読んでいれば、ものみの塔のことをボロクソに言う材料にしたと思うのだが、今代わりに言っておこう。

この「目ざめよ!」誌の本文はこう。予言する人について

自分の語っている事柄は正しいと誠実に信じている人もいます。そうした人々は、聖書の言葉の一部や物理的現象について独自の解釈に基づいた期待を唱えます。エホバから直接啓示を受けて予言している、つまりエホバの名前によって預言しているとは唱えません。ですから、そのような場合、予言がそのとおりにならなくても

偽預言者とみなすべきではありません。人間は誤りを犯しやすいため、物事を誤解していたのです。

だから、ものみの塔を偽預言者と呼ばないでということ。もともと独自の見解を述べているだけだし、人間だもの、間違いはあるから許してねと。

ここに書いてあることが全て真実だとは決して思えないが、話の筋には辻褄が通っている。以下の流れ。

  1. ものみの塔は誠実な人間の集団で、聖書の独自解釈で予言している
  2. そして、人間なので間違うことも多々ある

ということ。よく理解できる。つまりは

  • ものみの塔は信用に値しない

もうちょっと優しく判断すると

  • ものみの塔の予言は信用に値しない

くらいだろうか。

ものみの塔協会は予言ハズシの老舗、偽預言者の伝統芸

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ものみの塔協会は予言ハズシの老舗、偽預言者の伝統芸

『良心の危機』、読みにくい第7章なのだが・・・

『良心の危機』第7章「予言と独断」、冒頭の聖書「申命記」からの引用をさらに引用。

もし預言者がエホバの名において話しても、その言葉が実現せず、そのとおりにならなければ、それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである

エホバ、エホバ書いてあるので、忌々しい新世界訳からの引用だと思うのだが、つまりは予言をハズした奴はせん越な偽預言者ということ。これは他でもないものみの塔のこと。

ものみの塔は、世界の終末ハルマゲドンの予言をやがて150年ハズし続けている。信者を惑わすものみの塔は完全なる偽預言者。

「預言ハズシても信者減らねぇっす」という麻薬中毒のものみの塔

ものみの塔協会の統治体の予言は時代ごとに現れる偽預言者の世迷言

本章の主旨やものみの塔の正体は前述の聖書からの引用で全てなのだが、この7章は続く。予言ハズシの実態をものみの塔の宗教本から多数引用して糾弾している。

この章はものみの塔の引用が退屈でしょうもないので読み進めるのが苦痛。しかも傍線が引いてあったりして、著者のエホバの証人らしさが出ている。私もかつてエホバの証人2世信者であることを強制されていた頃、こうして宗教本に下線を引いて予習をさせられた。

偽預言者の伝統芸、磨き上げられた信者を欺く「神技」

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エホバの証人が試されるのは、神でなく組織への忠節

エホバの証人、権威構造の宗教に救いはない

『良心の危機』、第6章「二重基準と御都合主義」より。

マウライのエホバの証人は踏み絵を踏むのを許されずに迫害を受け、生死を脅かされる。その一方で、メキシコのエホバの証人は賄賂を支払って軍務修了の証明書を入手。予備軍に参入していた。

メキシコのエホバの証人組織の脱法はそれだけに留まらず、組織そのものが宗教組織でなく文化組織の体裁をとっていた。祈らず、謳わず、聖書を持ち歩かずという神の冒涜三原則。

それはメキシコで土地などの資産を追い求める手段として。神より財産という物質的合理主義。

ここまでが昨日の記事

なぜ、エホバの証人組織にはここまでの地域間格差があるのかというのが、本日の入り口。答えはエホバの証人が偽者のカルトだからなのだが、本書ではそれを明快に指摘している。

キリスト教を規律の形で扱う権威構造よく現れる産物だと今の私は考えている。権威構造に関わる人たちは、それほど良心にやましさを感じることなく二重の基準があるのを見ていられるようになってしまう

エホバの証人は、宗教を隠れ蓑にした一部の人間の権威欲を満たすための組織。その欲望の犠牲になって死んだり、人生を圧倒的に損なったり。権威者にとってはそれは目に留める必要もないこと。

地域間格差に良心を痛める一般信者がいる一方で

「トップ」に立ち、いわゆる「象牙の塔」にいる人たちは不思議なほどにそういう感情とは無縁で、この二重基準が人々にもたらす影響には感じるところがない

地域に不公平があろうが、いかに全体をたぶらかし、上手く統治するか。それしか考えていない。個別の家族の不幸など一切関与しない。こんな宗教、いやカルトに救いがある訳がない。

組織の言うことは絶対!エホバの証人

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踏み絵を踏むのを許されるエホバの証人、許されないエホバの証人

マウライとメキシコのエホバの証人の格差

『良心の危機』、第6章「二重基準と御都合主義」から。

本章ではかつてのマウライとメキシコのエホバの証人(JW)格差を指摘。

マウライのエホバの証人は一党独裁政権の党、つまりは政府の党員カードを購入することを拒否。結果、マウライのエホバの証人は家を焼かれて殺害されたり強姦されたりという迫害を受ける。

ものみの塔は党員カードを購入すればエホバの証人とは見做さない、排斥処分とするという指針。このため党員カード購入はマウライのエホバの証人にとって「踏み絵」として機能した。

同時期、メキシコでは別の基準がものみの塔によって運用されていた。メキシコのエホバの証人は役人に賄賂を支払って兵役を回避。それはものみの塔本部の認める所だった。この二重基準についてはエホバの証人の統治体メンバーも関知。

メキシコでは賄賂を支払い軍務を修了したという証明書を手に入れると、予備軍に所属することになる。世界中のエホバの証人は兵役の代替公務すら拒否して投獄の憂き目にあっている。何たる格差。

エホバの証人の兵役拒否、代替公務に対する認否の変遷

マウライのエホバの証人は生命・人権が脅かされるほどに迫害された。一方、メキシコのエホバの証人は兵役を拒否するために賄賂で偽造文書を手に入れるという不正を犯し、建前上は予備軍に所属する。

メキシコのエホバの証人は自身の置かれた矛盾状態に心を痛め、再三ものみの塔の世界本部へ問い合わせを入れている。それでもこの二重基準が変更されることはなかった。

「踏み絵」踏みまくりのメキシコのエホバの証人

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『一九八四年』~邪神とよこしまな組織を見極める方法

古来から騙され続けてきた人々

近未来の(今となっては既に過去設定だが)仮想全体主義国家を描いた『1984年』。本ブログの主旨であるエホバの証人というカルト宗教のなかの世界にそっくりだと思いながら読む。

著者自らが書いた巻末の附録、作中で使われるニュースピークという言語の設定を解説したもの。解説と言いながら未来からニュースピーク当時を振り返る書き方がされていて不思議な部分(ここは解説に詳しい)。この附録にエホバが登場する。

党員に必要とされたのは、自国の民以外の民は「邪神」を崇拝しているということ以外、他のことをほとんど知らなかった古代のヘブライ人と同じようなものの見方をすること

党員はエホバとエホバによる十戒を知っており、それ故、他の名前や他の属性を持った神は邪神であることを知っていたのである。

自分の知っているもの以外が全て邪であると信じるのは凄まじく危険。そう信じたが最後、他のものは一切目からも耳からも入ってこない。

様々な思想や神がある中で、最初に巡り知ったものが聖であるという偶然。ないない。その信じたい偶然を「神の導きで」とか言っているから騙されちゃう。

「いろいろ試した結果、これしかないと思いました」と言っている奴も大して変わらない。その思考状態で一択、聖を選びとれる訳がない。一長一短あるけど暫定ランキングで一位はこれ。というのが正しい。今の決断は今の段階においてベストというだけ。順位は入れ替わる。

邪悪なものを見極めるには・・・

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エホバの証人(JW)の統治体、その腐りきった思考回路

安心してものみの塔にいられるように?

『良心の危機』、第5章「しきたりと律法主義」から。

なぜ、エホバの証人(JW)が従うものみの塔の指針はなかなか変わらないのか?変わるときも、なぜそれまでの方針の過失を認めないのか?

それは教団の方針を決める統治体の考え方にある。

長年にわたって何千という人たちが協会の方針に従うということで投獄をはじめ大変な目にあってきた。今になって方針を変更すれば、ではこれまでの苦労は必要なかったのかということになるだろう。そういった苦難も「義のための苦しみ」として満たされた気持ちで受け入れていたであろうに、ここで変更しては幻滅が生じ、自分の受けた苦しみを他の人は受けずに済むのかという不公平感すら生まれる

というのがエホバの証人の統治体様の考え。私も統治体の立場であれば同じように感じる。エホバの証人活動を苦行かつ罰ゲーム的辱めだと捉えているから。

そもそも苦難を喜びだと感じるマインドコントロール状態にはない。指針を改変して、幻滅・不公平感祭りで信者の脱会が増加するのも良いし、古い指針に固執して時代の流れに即さなくなって叩かれるのも良し。

筆者は逆で

むしろそのように苦しんだ人たちは、もはや自分たちが味わったように苦しみを味わう必要もなくみんなが安心して組織にいられるのだと喜んでしかるべきではないかと感じた

と書いている。本人は

聖書が説く精神

に寄せているつもり。実際そういった清らかな思いなのかも知れないが、カルト組織が安心していられるように変わるのを喜びと感じるのは、やはり脳内お花畑のJW状態。

輸血解禁、子供の信仰は子供の完全選択方式。楽園なし、復活なし、永遠の命なしの3なし実現からのハルマゲドン来ません&油そそがれてません宣言。ここまで膿を出しきってカルト臭消して、ものみの塔は聖書クラブの老人会になりました。安心して聖書を学べますとなったら。

それって喜ばしいかと言われれば、そうでもなく。現状よりは相当にマシなのかも知れないが。私が人間出来ていないのかも知れないけど、カルトはカルトらしくしてくれないと息を吹き返しちゃうかもしれない。

子供の頃に受けた私自身の恨みのためにも、ものみの塔には跡形もなく消滅して欲しい。

現状のものみの塔が体罰をやめている体なのは、無垢の子供が被害を受けなくて良いのかとは思う。しかし、過去について詫びることなく、悪びれることなくというふざけた姿勢。やはり徹底的に叩き破滅させたい。

ものみの塔聖書冊子協会に電凸した話の続き、体罰推奨協会

内部から清浄化されるのではなく、外部から燃やし尽くしたい。

いずれにせよ、内部から清浄化されることなど、腐りきったものみの塔にはあり得ない。たとえ輸血解禁でもしようものなら叩きまくって、死んでいった信者の不公平感を煽るだけ。

ものみの塔が腐っているのは統治体の精神による

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エホバの証人の統治体メンバー「ロイド・バリー君」、再登場

エホバの証人の統治体、いいかげんな決議

『良心の危機』より。昨日の記事では兵役拒否の代替公務、それをエホバの証人が認めるか否か、その変遷があったことを書いた。さらに、代替公務禁止期間に実際に投獄された信者も存在した。

1978年に統治体内で「代替公務」解禁が議論になった際の詳細も本書に書かれている。

1978年のあの時、一人の統治体のメンバーが意見を変えなかったならば、今挙げた人たちの誰一人監獄行きにはならなかっただろう。

こうした人たちは良心的な理由で監獄行きになったのではない。組織に強制された方針に従ったのである

この意見を変えた統治体メンバーというのはロイド・バリー。本書では「代替公務」議論におけるロイド・バリーの優柔不断エピソードが描かれている。本書の脚注も参考にされたい。

ロイド・バリー君、一旦は代替公務解禁に賛成するものも、休憩を経て「やっぱやめた」となる。これで三分の二を下回り、全世界のエホバの証人が収監されることに。その後の再決議の際には、まさかの離席といういいかげん野郎。

『良心の危機』、エホバの証人(JW)の茶番の数々その1

バリー君、再登場

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エホバの証人の兵役拒否、代替公務に対する認否の変遷

エホバの証人が厳守するのは聖書でなくものみの塔基準

昨日の記事で、エホバの証人はものみの塔という鳥かごの中の人生と書いた。教義やら信者や信者家族のしがらみ、恐怖心に自らの精神までが捕らわれているということ。

『良心の危機』5章では現実に収監されたエホバの証人の話題が出てくる。

国民に兵役が課せられる国の話。エホバの証人は兵役はもちろん武道など一切を拒否する。理由は聖書のどこかに「彼らはもはや戦争を学ばない」と書いてあるから。

それにしてはキリストの一番弟子ペテロは武装していて、キリストが捕まる直前に斬撃で応戦している。エホバの証人に言わせれば、それとこれは訳が違うということになるんだろうが。

であれば、聖書に書いてあること一部始終を厳守する必要はない。時代が違うんだから。現在の日本でペテロみたいに帯剣してる奴がいないように、血をタベナイーって聖書に書いてあるからって、それをどこまでも拡大解釈して輸血拒否するのもおかしい。

そもそも聖書なんか現代日本人にはどうでも良くて、単なる異文化のベストセラーに過ぎない。これを言うとおしまいなので、エホバの証人は聖書厳守しているつもりで、結局はものみの塔基準を厳守しているというのが今回の主旨。

ものみの塔が聖書をつまみ喰い&脚色した独自教義を厳守しているのがエホバの証人。ペテロの帯剣は無かったことにして、戦いを学ばないだけを徹底フル適用。そして血をタベルナを超拡大適用。

そして、兵役を拒否する代わりの「代替公務」。聖書には兵役の代わりに政府が用意した「代替公務」を避けろなんて書いてある訳がない。

エホバの証人の兵役拒否、「代替公務」の認否の変遷

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ものみの塔という鳥かごの中の人生、未来に対して無意味な人生

投獄されるエホバの証人

『良心の危機』から。なかなか読み終わらない本書。分厚い本だとしおりの位置でどこまで読み進んだか分かるのだが、今回は電子書籍で読んでいるので外観からは不明。アプリ内で本を開く前に何%と出るので、確認してみるとまだ三分の一程度。

まだ折り返してもいないのに、ものみの塔の冗談じみた不義の数々が出てくる。ものみの塔と統治体のやっていることは茶番なのに、信者一人一人の人生にとっては悲劇に転換される。災厄を撒き散らすものみの塔。

私みたいに日本のエホバの証人2世だと、体罰を受けた、子供時代に自由を制限された、進路を狭められたというような親との関係が問題のメイン。その結果、現在の経済的困窮だったり、精神的な問題を抱えていたり、家族の問題があったり。

本書の5章後半から6章で取り上げられている話題は、エホバの証人と対政府の問題。エホバの証人信者として不合理なものみの塔の指針に従い投獄される話。

日本のエホバの証人は収監までされないので、マシだと言うつもりは一つもない。人は置かれた場所で、各自の問題と戦っている。それでも、しょうもないものみの塔の方針のせいで何年間も牢で過ごすというのは、やりきれない。想像しがたいものがある。

『良心の危機』、エホバの証人(JW)の茶番の数々その1

『良心の危機』、エホバの証人(JW)の茶番の数々その2

ものみの塔という牢で過ごす無意味な人生

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