輸血拒否が子どもの意思であろうとなかろうと、ものみの塔の罪は重い

完全悪、ものみの塔

今読んでいる『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』より。1985年にエホバの証人の子どもが、輸血を拒否して亡くなった話。

被害者の子どもは

『死にたくないよ、生きたいよ』と父親に訴えてもいる

ところが、父親は耳を貸さず断固輸血拒否。そして被害者の子どもは絶命。

これをエホバの証人に言わせると

輸血しないで死ぬのがイヤだったんじゃなくて、輸血して復活できなくなっちゃうのがイヤだった

死にたくない、っていうのはそういう意味だった

となる。憶測だらけで好き勝手な論を吐く。本人に聞いたわけでもないのにこんな話を広める。当時、私の両親たちも似たような論調で、この幼い殉教者を語っていた。

死者を冒涜する、エホバの証人の自分勝手なウソ。「生きたい」ために輸血したくないなら「輸血したくない」と言うはず。命がけの極地で、そんな曖昧な発言をするはずがない。この子の「生きたい」は、輸血を含むありとあらゆる手段を使っても「生きたい」だったんだよ。

筆者はこの後、本事件にのめり込み、教団に潜入までして調査する。そう突き動かしたものは

輸血拒否が大の意思であったか否か

大というのは被害者の子ども。

子どもの意思だろうが、何だろうがそんなものは関係ない。子どもは騙されているだけなのだから。自分の意思で輸血を拒否しようが、自分の決断で(一旦)死にたがったのだろうが、その根幹にあるのは「人間が復活する」という嘘。

本人が生きたいと言ったのは、「輸血して生きたい」でなく、「復活して生きたい」だとエホバの証人は決めつけ、本人の願いだったということにしている。

しかし、そんな危険思想を持たせたのは周囲の大人。周囲の悪い大人のエホバの証人。無垢の子どもを「人間は復活する」と騙して脅して殺す。罪は重い。

輸血拒否が子どもの意思でなく、大人の強制であれは単純な殺人。

輸血拒否が子どもの意思であれば、そう洗脳したものみの塔やエホバの証人の大人たちの罪。生まれながらに「人間は復活する」と仕込まれれば、子ども信じざるを得ない。「地球が丸い」と、大人が信じているのと同じ。

いずれにせよ、ものみの塔や大人のエホバの証人が完全悪であることに違いはない。

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』~偶然サバイバルした者の務め

背教者のみぞ知るエホバの証人の真理

筆者もこのあたりを分かりつつ、教団に潜入してまでこの事件を調べているはず。

作中で、エホバの証人が背教者と毛嫌いする灯台社の明石順三の息子の手記を引用している。本人が宗教から転向した理由を示したもの。

これまでエホバの証人と自称して、国家に対する義務も責任も人間的な名誉も権利も、現世に生活するということも否定してきた。しかしながら、己れを現実の世界から隔離させて、自分のみ精神的満足を得ようとするのは、自己中心の独善主義である。自分はその点に気づかず、聖書信仰という夢の中に眠っていたのだ。

元来自分の信仰は、無知な子供の時代より父がその信仰的立場から教育した結果、有するに至ったもの

この文章がエホバの証人とエホバの証人2世信者の真実を端的に表現している。

本作筆者の動機は何なのか。単に、輸血拒否が子ども本人の意思だったか否かだけではあるまい。

世の中に報道された「エホバの証人は子殺し」というのは、真実の一面でしかない。それを「エホバの証人は子殺しではあるが、それは子どももエホバの証人の親本人もものみの塔にマインドコントロールされているから。それゆえに鬼畜の所業を行なうに至った」に訂正したかったからなのではないか。

まだ3分の1程度なので、この後を読み進めたい。筆者の語り口は軽やか、ユーモラスな所があり、激的に重いテーマにもかかわらず、悲壮感にとらわれず読み進められる。

 


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