宗教親を棄てた瞬間に壊れたモノ
昨日までの記事の続き。宗教親は棄てることができるという話。私の実体験になるが、私が宗教親を捨てたときに親子の絆のようなモノが決定的に壊れてしまった。
だから、私の親子関係が完全に元に戻ることはない。
これがエホバの証人という宗教の罪。
宗教親を棄てなければ家族は壊れなかった?という言いがかり
“親の宗教道楽に付き合わされる道理など一切ない” の続きを読む
昨日までの記事の続き。宗教親は棄てることができるという話。私の実体験になるが、私が宗教親を捨てたときに親子の絆のようなモノが決定的に壊れてしまった。
だから、私の親子関係が完全に元に戻ることはない。
これがエホバの証人という宗教の罪。
“親の宗教道楽に付き合わされる道理など一切ない” の続きを読む
私はエホバの証人というカルト宗教の2世信者で、宗教親を棄てた。その結果、後に宗教親が宗教をやめて”親”として戻ってきた。
そのとき、私はその親を拾う必要があるのだろうか?
積極的に関係を再構築して扶養や看取りを計画する必要があるのだろうか?
宗教親に対して「最後は面倒見るつもりない」と言うと、 世間はすぐにこう言う。
……いや、知らんがな。その“絆”とやらを壊したのは向こうだろ。私はただ、壊れた家から逃げただけ。それを「冷たい」と言われる筋合いはない。
“宗教親を棄ててもいい──壊したのは向こうだ” の続きを読む
宗教親に対して強く批判したり、距離を取ったり、「最後は面倒を見るつもりはない」と言うと、世間はすぐにこう言う。
しかし、宗教2世の現実はまったく違う。宗教親は棄てられる。そしてそれは冷酷でも非道でもなく、正当な帰結。今日はこの点を整理しておきたい。 “【宗教親は棄てられる】―「棄てられない」と思い込んでいるあなたへ” の続きを読む
2026年9月、 エホバの証人の実質的輸血解禁を受けて、現在の私の立ち位置を珍しく熟考中(小一時間ほど・・・)。
「老親に覚醒してほしくない」は、自分が傷つきたくないだけ。誰かのためじゃなく自分のため。
「罪を犯し続けてほしい」と言ってるのと同じ構造。
もし“罪じゃない”と思うなら現役信者に戻ればいい。それができないなら黙ってろ。
利他的に見せかけた自己中心性。
知的ポーズで誤魔化した自己保身。— 山羊男 (@jw2nd_com) September 21, 2026
曲がりなりにも「真理を探究している」つもり(実際には逆走だが)の連中なんだから、本気で「真理の探究」をサポートしてやれよ。
家族で徹底的に傷つけあって復元不可能なところまでいけばいいんだよ。そしたら、お互いに目ざめるよ。
たった一度の人生、宗教ごっこ、家族ごっこで終えるつもりか。— 山羊男 (@jw2nd_com) September 21, 2026
てな感じの強めの投稿までXにしちゃったりしたので、少し考えを深めることに・・・。
“親を棄てた者の倫理──輸血解禁が照らした宗教2世の構造” の続きを読む
2026年9月、エホバの証人が実質的に輸血を解禁。 この出来事をきっかけに、私は自分の立ち位置をちと考えさせられることになった。基本的に普段は直感と行動で生きている人間なので、熟考することなどほとんどないのだけど。
しかし今回、脱会者の中にも輸血解禁に「精神的に衝撃を受けた」という声が少なくなかったことを知り、まったくのノーダメージだった自分は一体どこに属しているのか、何者なのか、と考えさせられたわけで。
“輸血解禁で気づいた──私は宗教2世の“物語の外側”にいた” の続きを読む
エホバの証人が国を訴えている「宗教虐待Q&A」裁判。
昨日、裁判記録を初めて読んだのだが、最初に浮かんだ感想は「児相仕事しろよ」。 ……と思ったら、エホバの証人にターゲットにされて今回の裁判に引っ張り込まれたのは児相ではなく子ども家庭センター(多分)。
そして、次に湧いたのは、子どもの頃にかつて自分がエホバの証人であることを強制されていたときに抱いていた、あのどうしようもない感覚。
── 「姑息というか卑怯というか・・・違う、ダサいんだよ、連中は。」
なぜそう感じたのか。裁判記録を読み進めるほど、その理由が次々と積み上がっていった。
第三者である私は裁判記録の複写ができず、記憶に頼っているところもあるのであしからず。
裁判の概要は、「ものみの塔聖書冊子協会」と、大阪府、東京都を中心に北海道から佐賀県の子どもを持つ信者20名(夫婦10組)が原告。被告が国。
訴えの内容はだいたい以下。
(1)「宗教虐待Q&A」とそれに関する通知の撤廃
(2)「宗教虐待Q&A」とそれに関する通知の無効確認
(3) 国家賠償法に基づく損害賠償
(4) 原告らが子どもたちと宗教活動を行う権利の確認
(4)については以下の3つ。
“エホバの証人は“輸血拒否”を隠して国を訴える─裁判記録を読んで再確認した、あの頃の「ダサさ」” の続きを読む
「うちのエホバの証人親はそこまで厳しくなかった」。これは、私自身の実感でもある。それでも、「雪だるま禁止」だった。体罰は通算500発。さらに、輸血拒否で五分五分の手術に挑まされた。これが“普通”のエホバの証人家庭。
エホバの証人の組織構造では、解釈が分かれるどっちでもいいことや、命に関わるようなことが戒律化し、強要される。
その結果、被害が生まれる。ときには死亡者まで出る。この悪質構造を端的に象徴しているのが、「雪だるま」禁止。昨日までの記事の続き。
“エホバの証人の“普通”が、すでに異常すぎる件について” の続きを読む
エホバの証人の子どもの「雪だるま禁止」は笑い話でも特殊事例でもない。統治体の思いつきが、命に関わる教理になる。その最たる例が「輸血拒否」。子どもが死んでも、誰も責任を取らない。それが“ふさわしさ”で支配される宗教の現実。
“「雪だるま禁止」の先にあるのは、子どもの死だった―エホバの証人の命を奪う危険な構造” の続きを読む
昨日の記事の続き。元エホバの証人2世だった私の子どもの頃の特殊事例「雪だるま禁止」からあぶり出すエホバの証人全体の極悪さ。
「雪だるま禁止」は、単なる親の厳しさや家庭の特殊性では片付かない。むしろ、そこにこそエホバの証人という組織の構造的な危うさが凝縮されている。
なぜなら、こうした“禁止”は、個人の判断ではなく、組織内の空気や上層部の発言によって簡単に広がっていくから。
“「雪だるま禁止」から見えるエホバの証人の全体主義。“ふさわしさ”教―思考停止の連鎖” の続きを読む
「雪だるまを作るのは、ふさわしいことでしょうか?」 これ、エホバの証人親が子どもに向けて本気で言うセリフ。いや、ただの雪の塊なんだけど。しかし、連中の世界では、これが“信仰の踏み絵”になる。それが「ふさわしさ」という名の思考停止。昨日の記事の続き。
エホバの証人の世界では、「偶像崇拝」は絶対にNG。しかし、それだけでは終わらない。連中は“他人の目”を異常なまでに気にする。「義の民」として模範的にふるまわなければならないという強迫観念が、日常のあらゆる行動を縛ってくる。
たとえば、子どもが雪だるまを作っているのを、近所の人が見たらどう思うか?「あの家、偶像を作ってるぞ」と思われるかもしれない。実際には誰もそんなこと気にも留めないんだけど。しかし、連中は自分たちがどう見られているかを異常に気にする。
逆に言うと、そんな感じの自意識のかたまりみたいなのが、集まってできている宗教団体なのかも知れない。また、「常に模範的であれ」みたいな、実は社会人として当たり前なことを、変な角度で信者に叩き込むから、こんな異常な出来に仕上がってしまうとも言える。
“エホバの証人の「ふさわしいでしょうか?」という思考停止” の続きを読む