「雪だるま禁止」と“1Q84年”の記憶、「その親が特別厳しかった」という問題ではない。

子どもの遊びが「偶像崇拝」になる世界

雪だるまを作れないエホバの証人2世の子ども、諦めと許しと

日本中が記録的な大雪に見舞われた1984年。まさにジョージ・オーウェルの小説『1984』の年。支配と監視、二重思考の象徴として語られるこの年に、私の中でも忘れがたい記憶が刻まれた。

『一九八四年』塔から与えられればどんなに愚かなことでもそのまま信じられるエホバの証人

当時、雪だるまを作ろうとした私を待っていたのは、エホバの証人親による制止。理由は「雪だるまは偶像だから」。おいおい、ただの雪の塊だろ。

エホバの証人の子どもは雪だるま禁止だったのか?

私の例は極端で、我が家のエホバの証人親がとくに厳しくて、雪だるま禁止だった。だから、エホバの証人全体の問題とみなすのはどうのこうの、みたいな意見をチラリズムしたんだけど。

浅いって。

なんで、そこをエホバの証人批判に持っていかないのか?まだ治ってないんですか?

エホバの証人親に漂白剤飲まされたとか、背中に「Jehova」ってタトゥー彫られたとかなら、それはその親の問題であり、エホバの証人全体の問題ではない。

しかし、「雪だるま禁止は、普通にエホバの証人全体の問題。「その親が特別厳しかったから~」で片付く問題ではない。

子どもの遊びにまで及ぶ宗教的制限

エホバの証人の教理では、偶像崇拝が禁じられている。しかし、問題はその“解釈”の飛躍。私の親の頭の中では、以下の連想が働いた。

雪だるま→ダルマ→達磨大使→仏教系の像→偶像崇拝→禁止!

この思考回路、もはやギャグのようだが、当人たちはガチ。エホバの証人は、他の宗教に関するものを忌避し、偶像崇拝に類する行為も避ける。だから、子どもが雪だるまを作ることすら、こじつけというか、よ~く考えてしまうと「ふさわしくない」となる。

だから、子どもが雪だるまを作るのも禁止となる。

ここまで、これは完全にエホバの証人の教理に由来するモノ。

もちろん、すべてのエホバの証人家庭がそうだったとは限らない。しかし、少なくとも我が家では、雪だるまは禁忌だった。そして、これは単なる“うちの親が厳しかった”という話ではない。

「雪だるま禁止」は、エホバの証人という宗教団体の教理と、その思考形態に根ざした現象。子どもの無邪気な遊びすら、宗教的なフィルターを通して「善悪」が判断される。しかも、その判断基準は、聖書の明確な記述ではなく、組織の空気や“それっぽい”解釈に基づいている。何ともお寒い限りで。さすがの雪だるま。

明日に続けます。この宗教の極悪さが、たかが一つのエホバの証人家庭の「雪だるま禁止からあぶり出されます。


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