雪だるまを作れないエホバの証人2世
息子の小さな頃の写真を見ていると、雪だるまと一緒に座っている写真を発見。彼の全身の大きさが雪だるまと同じくらい。何とも可愛らしく懐かしい。息子がまだ歩けるかどうかの年齢なので、雪だるまは私が作ったモノだろう。
私の小さな頃のアルバムにも似たような写真があった。雪だるまと子どもの私が並んでいるのだが、よく見ると違いがある。
息子のは雪を球状にしたモノが2つ重なった雪だるま。不格好ながらに私が描いた目、口もついている。私の小さい頃のは雪を球状にしたものが一つだけ。頭がついていない。
微妙な表情の幼い私、その横に丸い大きな球状の雪。気にしなければ、そのままスルーなのだが、私はその写真を見ていて悲しい事実を思い出した。これもエホバの証人にまつわる話。
子どもの私はコロコロと雪玉を転がして大きな球に。雪だるまの胴体を作った。そしてもう一個、一回り小さめの雪だるまの頭を作ろうとしたのだが、ここで両親にストップをかけられた。
雪だるまはエホバの証人にふさわしくない。
という理由で。
諦めるエホバの証人の子ども
エホバの証人は偶像崇拝を禁止している。また、他の宗教に対して敵対心むき出しで攻撃する。異教の習慣、風習、それらをやること、見ること、全てを禁止。ここに柔軟さは一切ない。
小さな子どもが楽しく雪だるまを作っている。その瞬間にも、エホバの証人の教理が厳格にキッチリガッチリ適用される。
雪だるまは偶像にあたるので製作禁止、ただの玉にしなさいと。作ってもそんなモノ拝みやしないというのに。だるまというのは仏僧でもあるので、異教のもの、ハイNGと。そういう話。
それならば、そもそも雪だるまを作るつもりで、コロコロと転がし始めた段階で偶像作成だろう。いざ、頭をくっつけて完成というクライマックスで寸止めされた私の悲しさと虚しさ。そして諦め。
逆らえば、待っているのは懲らしめ、愛のムチという体罰、児童虐待。私は、抵抗することも、自己主張することも幼児の間にやめてしまっていた。
虐待された両親を許すのか
私の両親は、エホバの証人の深いマインドコントロール下にあった。なので、こんな顛末も仕方がないと言えば仕方がない。しかし、私が思い出す子どもの頃の思い出はこんなのばかり。
ちょっと楽しかったことの続きを思い出すと、出てくるのは、エホバ、エホバ。エホバのせいでできなかったこと。悲しかったこと。恥ずかしかったこと。悔しかったこと。
子どもの私にこんな思いをさせていた両親は、30年以上経った今、そのつけを払っている。自責の念にかられ、罪悪感に苛まれている。
そして、私がそれを慰めることはない。許しているのか?許していないのか?と言われれば、もうどうでもよくて、許しているのかも知れない。
今は、両親を反面教師としているのだが、あえて過去のことを掘り起こして、和解しようという気にもならない。我々の家族は、掘り起こすのが難しいほどの、あまりにも深い傷を負っているから。
違うだるまの話「だるまさんがころんだ」
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