エホバの証人でないと得られない固有のモノなど存在しない
昨日の記事の続き。エホバの証人だったことで、その後の人生の役に立つことがあるのか?という話。
私が2世信者だった子どもの頃に言われたのは、私が本が好きなのや、学校の勉強系の成績が良いのはエホバの証人だからということ。小さいころから活字に触れ、教団の宗教本で勉強をしていたからだと。こうエホバの証人だった親に言われてきた。
これはとりあえず全否定したい。本が好きなのは私の息子も同じで、私の息子はエホバの証人とは無関係なので、エホバの証人に依存することではない。
そして、学校の成績が良かったのは私がガリ勉だったから。私の努力によるモノ。エホバの証人とは関係ない。
そう言うと、聖書レッスンや集会で集中力を養ったからガリ勉できたんだ、みたいな展開になるんだが、それも違う。エホバの証人でなくても集中力が養える環境はある。ホンモノの集中力を養える環境がある。
そもそも、子どもの私は聖書レッスンや集会で、集中などしていなかった。
エホバの証人でないと得られない固有のモノなど皆無。多少何らかの益があったとしても、それを上回る有害な影響がある。よって、相対的に見れば、エホバの証人であったがゆえに得られたモノに価値などない。エホバの証人であるがゆえに体験したことやモノは、すべて無価値で有害。
しかし、エホバの証人だったことで役立っていることとして列挙されるモノで、もしもそれがエホバの証人固有のモノがあるとしたら?
あったとしても、それも無意味。それどころか有害。
この考えを証明するために、エホバの証人だったことで役立っていることとして挙げているモノに対し、以下の分類をしたい。
- それが得られるのが唯一エホバの証人のなかだけの固有なモノなら
- それがエホバの証人以外でも得られるモノなら
この2パターンで説明したい。
エホバの証人で得られる固有のモノは邪悪
“エホバの証人でしか得られない固有のモノがあるとしたら、それは邪悪” の続きを読む