『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』
元エホバの証人2世の著者が書いた本。この本から、エホバの証人の誕生日の教理が間違っている理由を指摘したのが前回。
ものみの塔協会の誕生日禁止が間違っている理由
聖書をよく読むと、イエスが生まれる時の方が、死ぬ時よりも盛大であった。馬小屋で生まれた時には大勢のみ使いが賛美にやってきた
それに対して杭の上で死んだ時は、み使いが現れなかった。あのみ使いたちはイエスの誕生日を盛大に祝っていたはずだ
み使いって表現が懐かしいというか、苦笑い。エホバの証人は天使と呼ばず、なぜか「み使い」と言う。おそらく翻訳が古臭くてダサいだけなのだが。英語では普通にangelなので。
どうやら、キリストの誕生日は盛大に祝賀された様子。逆にキリストが死んだときには、天使は祝福には降臨しなかった。そりゃそうさな。
いくら殉死とは言え、祝賀というのはちと違う。そういう意味ではエホバの証人の死の記念式は異常。エホバの証人にとって年に一度の祝祭日ということで、着飾って振袖とか着ちゃう。曲がりなりにもキリストが死んだ日なのに。
キリストの誕生日が盛大に祝われたのは事実。であれば、エホバの証人が誕生日を祝うことを禁止される理由はない。ものみの塔の教理は誤っている。
エホバの証人は家族をやり直すために誕生日を祝うべき
私は生まれながらのエホバの証人2世なので、一度も誕生日を祝って貰ったことが無い。少なくとも親には。ケーキの上のろうそくを吹き消したり、誕生日プレゼントを貰ったりしたことは一度も無かった。
エホバの証人の母は
「エホバの証人は特別な日のプレゼントでなく、いつでもプレゼント貰えるから良いわね」と私に言っていた。
そんな問題じゃない。特別なプレゼントはやはり特別だし、記憶に残る。私も、ケーキの上のロウソクを吹き消すイベント感を味わいたかった。普通に誕生日を祝われる友達がうらやましかった。
普通の子どもだって、私が買って貰えたようなしょうもないプレゼントならいつでも貰える。しかも、エホバの証人の貰えるプレゼントはひどく限定されたモノ。何もかもものみの塔の教理に、律義に照らし合わされるから。
そもそも、いつでも貰えるは嘘。
- エホバの証人の神権宣教学校に入ったら
- 夏休みに聖書を全部読んだら
というような下らない条件付き。話にならない。
私はもう40才なので、こんな誕生日プレゼントがどうのこうのというのは、今さらどうでも良い。自分の子どもにだけは同じ思いをさせまい。そう思っているだけ。
現役エホバの証人は、家族の誕生日に気軽にプレゼントを渡して、祝ってあげよう。そして、感謝しよう。「生まれてきてくれてありがとう」と。それが家族との和解の一歩。
学校でも誕生日問題は発生する。その月生まれのクラスメイトを集めて誕生日会みたいのがあると、いつも私は不参加。祝うのも祝われるのも。誕生日会の間は圧倒的に孤独。そして、意味不明に見学することで生じる羞恥心。
こういった辱めを受けたことを私は許さない。そして、同じ苦しみを味わう子どもをこれ以上増やしたくない。