『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』
元エホバの証人2世の作者が書いた本。この本から、エホバの証人の誕生日禁止の教理の疑問について考える。
ものみの塔の予言解釈はでまかせ。また、教理や指針も教団トップの思いつきで都合よく作られて、そのまま引き返せなくなって、突っ走っているモノばかり。よって、ちょっと考えると教理の矛盾が次から次へと発覚する。今回は誕生日の禁止について。
ものみの塔の誕生日禁止が間違っている理由
エホバの証人は誕生日を祝うことが禁止されている。パーティーを開くのも、参加するのも、プレゼントを渡すのもすべて禁止。理由は
誕生日が聖書に出てくるのは二つの悪い事例しかない
から。ファラオやヘロデと言った権力者の誕生日に、囚人やバプテストのヨハネが死刑になった。この悪事に倣って誕生日パーティを開くのはNGということ。
実は、誕生日の記述はまだ聖書に出てくる。
ヨブの子供たちは『自分の日に各々の家で宴会を催し』と書いてある
これは聖書のヨブ1:4で、自分の日というのは誕生日のこと。聖書の直後(ヨブ3:1)に「自分の日イコール生まれた日」という記述がある。
ここでものみの塔の間違いが二つある。
- 聖書の中には、誕生日の記述が三つある。
二つではなく、三つ。ものみの塔は聖書理解が足りませんな。 - 聖書の中には、誕生日の好事例が載っている
ヨブって何が何でも神への忠誠を曲げなかった超善人。その子どもたちが誕生日を祝っていた。宴会を開いて。生まれた日を喜び、親に感謝する。子どもが生まれてきたことを親は喜び、祝う。至って普通の人間の営み。
誕生日を祝うという行為を評価するのではなく、誕生日に人を殺して、ウッヒャーってやるか、普通に誕生日会を開くかという行動の違いを評価すべき。ものみの塔が誕生日を祝うことを禁止するのは間違っている。
※2024/1追記。エホバの証人的には、ヨブの「自分の日」というのは、各自持ち回りという意味だったと思われる、という推測で逃げている。
ヨブ1:4とヨブ3:1にそれぞれ「自分の日」という表現があり、ヨブ3:1の方は文脈からして誕生日で間違いない。
1985年版の聖書だと、両方とも同じ「自分の日」となっているだが、新しい2019年版以降の聖書だと、ヨブ1:4の「自分の日」という表現を「日を決めて順番に」と改変している。誕生日禁止教理に寄せるかたちで。この恣意的な翻訳の改変には大いに疑問を感じる。
ヨブ1:4の「自分の日」が誕生日でないとしても、ほかの誕生日2回の記述から誕生日禁止は飛躍しすぎ。聖書に「書かれている事柄を越えて」いる。
また、キリストが生まれた瞬間には盛大に天使が祝ったわけで、誕生日はどう考えてもおめでたい。誕生日を「自分の日」と決めてでも祝うべきだ。
エホバの証人が誕生日を祝うべき理由
『死ぬ日は生まれた日に勝る』
という聖句だけを引用して、ものみの塔は、誕生日より死ぬ日が重要なので、キリストの死の記念式として、キリストの死んだ日を唯一の祝祭日としている。
だが、これって死んだ人間の生き様に依存する。もしくは死に方。
交通事故で死んだり、うっかり足を滑らして頭を打って死んだり、そんなふうに死んだ日を祝うか?
キリストは英雄なりの生き様があり、自分の妄想とともに殉教した。そのため、死んだ日が祝われても、まだ不自然ではない。連続猟奇殺人犯が死刑になったら、その日を祝うか?
生き様がまだ決まっていない一般人は、誕生日くらいしか祝いようがない。死んだ日がめでたいかどうかなど、死ぬ直前まで分からない。大概は不運だったり、無様だったり、未練が残る死に方だろう。
だったら、せめて誕生日くらいは、子どもの間に祝ってあげようぜ。
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