忘れることのできないエホバの証人という恥辱
『みんなの宗教2世問題』5章「宗教2世はいかに描かれてきたか」。
村上春樹の『1Q84』から。エホバの証人がモデルの宗教の2世信者が出てくる。主人公の宗教2世の青豆という女性は、10才で宗教を脱会。
十歳より前に起こったことを残らず忘れてしまおうと、彼女は長いあいだ努力を続けてきた。私の人生は実際には十歳から開始したのだ。それより前のことはすべて惨めな夢のようなものに過ぎない。そんな記憶はどこかに捨て去ってしまおう。
エホバの証人の脱会者も同じ。宗教を強要された恥辱に満ちた脱会以前の生活は忘れてしまいたい。暖かな子ども時代の記憶を持たないまま、家族からは信仰を違えたことを理由に忌避される。
家族も、家族のハマっている腐った宗教のことも忘れてしまいたい。新しい自分に生まれ変わりたい。宗教を強要されていた悲惨な幼少期のことは忘れ去ってしまいたい。
しかし、そうもいかず
どれほど遠いところに行こうと試みても、結局はここに戻ってこなくてはならない
幼少期に受けた屈辱と傷が完全に消えることはない。忘れ去ることはできない。
それならばと、私も戻ってきた。
私は脱会後、エホバの証人のことは忘れ、一切関係ない顔をして20年近く生きてきた。しかし、エホバの証人のことは、どうしても消し去ることができない私の人生の恥部だった。
だったら、エホバの証人のほうに消えてもらうしかない。
そして、エホバの証人が悪だと知っている者、エホバの証人がもたらす災いを知っている者として、エホバの証人を見逃すことができない。地の果てまで追いかけ、エホバの証人をこの世から消し去る。
エホバの証人をやめるのに犠牲はない
生まれたときから狭く緊密なコミュニティーの中で育ってきたせいで、より広い世界のルールを理解し、受け入れることがむずかしくなっている
エホバの証人というカルトが子どもに信仰を強要することの弊害。未来のある子どもたちが、より広い世界へ飛び立つのを阻害する。
これには明確な目的があって、子どもたちを外の世界へ出ていかせず、エホバの証人の中にとどまらせるため。教団にとって、信者の子どもは組織維持のための捨て駒にすぎない。
小さな子どものうちにその世界を離れれば、一般社会に同化できるチャンスは十分ある。でもそのチャンスを逃してしまうと、あとは「証人会」のコミュニティーの中で、その価値観に従って生きていくしかない。あるいは少なからぬ犠牲を払って、自力で生活習慣や意識を作り変えていくしかない
「証人会」というのが、エホバの証人をモデルにした宗教。
私は14才で脱会しているので、一般社会にカメレオンのように同化しているのだが、脱会できずに大人になってしまったケース。
その場合でも、エホバの証人をやめるのがベストな選択。
エホバの証人を続けるのは、そもそも社会に害をもたらす悪事だし、自分の自由意志を放棄して腐った宗教の言いなりになるなんて、いったい何のために現代日本に生まれてきたのか?エホバの証人を続けるのは、祖先の努力を全部水の泡にする愚かな行為。
エホバの証人をやめるのに犠牲など発生しない。そのままエホバの証人を続けるほうが、残りの人生すべてをムダに、犠牲にすることになる。
多少の勇気と努力で、エホバの証人をやめて一般社会に出ていくことができる。そんな努力、普通の世の中の人はみんなやっていること。
自分の考え方だけが正しいとか、自分が賢いと思わないこと。気に喰わない上司同僚、よく分からない理不尽な習慣に合わせること。そうやって、世間の人々は他人にある程度は同調して生きている。
完全同調でなくていい分、エホバの証人の中より難しいだけ。難しい分、ある程度は多様性を認めてくれるのが世間。エホバの証人のように教理を完全に信じない者、バカげたと思える指示に従わない者を一方的に断罪する排他性はない。
エホバの証人を続けて、将来すべてを犠牲にすることと比べれば、必要とされるのは、ほんの少しの努力と勇気。
大丈夫、世の中、結構変な奴が多いから。元エホバの証人だってその一部にすぎない。