エホバの証人の子どもの初「割り当て」の持つ意味とは
昨日の記事で、エホバの証人の子供にとって初めての「割り当て」が大きな意味を持つと書いた。その意味とは?
エホバの証人の割り当てとは?昨日の記事にて。
ズバリ、罪。
人前でカルトの講演を行うという罪。しかも、自分で入念に考え丹念に練習して臨む場。巧みな話術で人々をたぶらかす悪の所業。
本人には罪の意識などない。だからといってカルト講話が敬虔な行いに転化されるわけなどなく、罪は罪。
子どもの5分程度の幼稚な小噺など、誰もマジメに聴きはしない。それでも、子どもの真摯なひたむきな姿に心を動かされた人がいたら。今どきそんな純粋な人はいないのかも知れないが、私の子どもの頃は、そんなふうにしてエホバの証人になった信者がゴロゴロいた。カルトの広告塔としての罪。
壇上の少年が自分の子どもと似たような年齢で強く感情移入してしまったり、元々感情が動かされやすいタイプだったり。既にカルトの集会所に来ている時点で予備群ではある。騙される素養満点。
子どもが必死に割り当てを果たす姿に、心を動かされる大人。
他人の人生を狂わす罪。
エホバの証人の子どもにとって、初めての割り当ては、罪深い道への第一歩。
『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』~偶然サバイバルした者の務め
エホバの証人の子ども、初割り当ての日に流れる贖いの血
この罪に対して必要になるのが贖い。キリストだって頼んでもいないのに人類の原罪を贖った格好になっている。
エホバの証人の子どもたちが犯す初めての割り当てという罪にも、血の贖いが必要なのだとしたら。
エホバの証人の輸血拒否事件、川崎事件で亡くなった少年。死亡した翌日が初めての割り当てだった。割り当てという罪を犯す前ではあったが、少年は自らの血で罪を贖った。
初割り当てに呼応するタイミングで流れた血。私にも似た経験がある。事件の規模はだいぶ小さく比較にもならないのだが、私の初割り当ての晩にも贖いの血が流れた。当時の私にとって最愛の者の血と命。
私の初割り当ては小学校5年生の終わり。この頃には既に、エホバの証人をやめたいという願望を抱いていたのだが、両親の強制で初割り当てが回ってきた。
割り当ては夜の集会。学校から帰ってきた私は母に言われるがまま、割り当ての練習をこなす。もう何度も飽きるくらいに練習した。台本の隅から隅まで、原稿用紙のしわに至るまで覚えていると言っても過言ではない。
割り当ての練習を終えた私は、近所の砂山に遊びに行く。もともと原生林だったと思われる山が開かれ、丸裸の砂山になっていた。工事をする気があるのかないのか、木を全部切った後は放置され、若草が生え始めている砂山。
砂山の頂上まで登り、かけ降りる。途中で頭からヘッドスライディングするように砂の中へダイブ。やり過ぎると母に怒られるし、今日は初の割り当ての日。ほどほどにして家に帰る。
その後、事件は起こった。
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