カルトに寛容さを示すべきではないと、変化すべき
ここ数日、エホバの証人に寛容さを示したり、多様性を認める必要はないということを書いている。
我々の死を待ち望んでいるエホバの証人は、多様性や寛容さの適用外
昨日の記事では、多様性とか寛容という現代感覚でエホバの証人に美徳を示すのは甘い。しっぺ返しをくらうと書いた。
今日は、寛容という言葉でエホバの証人を見逃すのは中途半端であると。それは表面的な善性に過ぎない、ということを示す。
寛容とか多様性ってのは、時代とともに変化して現れた感覚。以前は寛容ではなかった、昔に比べて良くなっている、というのが大方の共通認識。かつて肌の色とか人種で差別されるのが当然だったが、それが今では変わり、人類の愚だったという反省点になっている。
かつての差別が人類の誤りであったと考えられるようになった。
これが表すのは、今現在の価値観が普遍的で人類共通に未来永劫正しい価値観ではないということ。人種差別は非で、多様性を認めるべきとなった。このように価値観というのは時の経過とともに変化していく。
ならば現代社会は、カルト宗教には多様性も寛容さも示す必要はない、というふうに変化しなければならない。カルト宗教許すまじと。
それが質のよくなるほうへの変化だから。悪いカルト宗教に多様性を認め、さらに野放しにするなんてのは、人類としては劣化方向への変化。
寛容さの本質とは?
“エホバの証人に示すべき、ホンモノの寛容とはなにか?” の続きを読む