カルトに寛容さを示すべきではないと、変化すべき
ここ数日、エホバの証人に寛容さを示したり、多様性を認める必要はないということを書いている。
我々の死を待ち望んでいるエホバの証人は、多様性や寛容さの適用外
昨日の記事では、エホバの証人に多様性とか寛容という現代感覚で美徳を示すのは甘い。しっぺ返しをくらうと書いた。
今日は、寛容という言葉でエホバの証人を見逃すのは中途半端であると。表面的な善性に過ぎないということを示す。
寛容とか多様性ってのは、時代とともに変化して現れた感覚。以前は寛容ではなかった、昔に比べて良くなっているというのが大方の共通認識。かつて肌の色とか人種で差別されるのが当然だったが、それが今では変わり、人類の愚だったという反省点になっている。
かつての差別が人類の誤りであったと考えられるようになった。これが表すのは、今現在の価値観が普遍的で人類共通に未来永劫正しい価値観ではないということ。人種差別は非で、多様性を認めるべきとなった。このように価値観というのは時の経過とともに変化していく。
そして現代社会は、カルトには多様性も寛容さも要らない。というふうに変化しなければならない。カルト許すまじと。
寛容さの本質とは?
極端な話、信教の自由って要るのか?新興宗教は一切認めないで良くないか?もともとキリスト教も仏教もなかった時代があって、それで当時の神様事情に不都合はなかった。たまたま渡来外来の宗教に一部の日本人が寛容だっただけ。
今さらキリスト教仏教を全て追い払えというのは言い過ぎなので、新興宗教の一切を禁止で良いんじゃないかと。それでもまだ極端だというのなら、エホバの証人を筆頭とするカルト禁止が着地点。カルトに寛容さを示す必要はない。
しかし、信者個人には大いに寛容さを示すべき。脱会させ、目を覚まさせ、リアル世界に馴染めるまで介抱し、本来の人生を歩ませる。そこまで付き合うってのが本来の寛容さ。
愚かな信仰を抱いているカルト被害者を見て見ぬふりをするというのは、見せかけの寛容。言葉だけの寛容さ。
私はカルト信者に寛容である必要はないと思うので、カルトを全部解散して信者が路頭に迷って絶望したって良いと思う。そして最悪の結果、命まで失う事態になったとしても構わない。カルト信者であり続けるよりは本人にとっても周囲にとっても、まだまし。有害な存在であるよりは消えた方が良い。
全体論ではこうなるのだが、個人個人を見ちゃうとやはり究極の寛容さを示したくなるのが人情。個人個人にとって適切な時期に適切な方法で脱会を勧めたいと。脱会後もしっかりケアしてと。しかし、そうなるといつまで経ってもカルトは無くならない。
だから、誰かが嫌われ役にならないといけない。カルトを消し去り、全ての信者が信仰的路頭に迷う。痛みの過程。世間にエホバの証人をカルトと認識させ、外堀を埋める。そして組織そのものを叩き潰すその経過。
エホバの証人のいない正常な未来を後世に残すには、多くの痛みを伴う。でも大丈夫。敬虔なるエホバの証人たちはその辺を充分に理解している。エホバの証人なら誰でも知っている聖句「人は誰でも蒔いたモノを刈り取る」だけ。