エホバの証人2世だった私が望んだ「強制」と「配慮」

エホバの証人2世の子供の望み

統一教会に並んで、エホバの証人も取り上げられている宗教特集の『週刊東洋経済 2022年10/8号 宗教 カネと政治』。『2世への支援策は?』のページ。宗教2世に対して外部の人ができること。

記事中の

周囲が2世の置かれている状況を理解することで救われる面もある

2世にとって学校生活は窮屈なことがある。そんな中で理解や配慮のある教員や友人の存在は心強い

という記述。

エホバの証人2世だった私にとって、学校生活は窮屈どころか拷問だった。無理解で横暴を言う教員はいなかったけど、本当に「理解」のある教員はいたとは言えない気がする。私から心を閉ざしていたので不明。

友人はいたかも知れない。私がカルト宗教信者であろうとなかろうと友達は友達だという友人。というか、友人側にカルトという認識はあったかどうか?

教員にこの友人と同レベルを求めるのは酷なんだけど、宗教2世の子供として私が学校の先生に本当に望んでいたのは何だろうか。

それは、「強制」と「隔離」かも知れない。

エホバの証人(JW)に示すべき寛容さの本質とは?

エホバの証人2世に対する「強制」と「隔離」

給食の前に合掌することを「強制」してくれれば。

七夕の短冊を書くことを「強制」してくれれば。

エホバの証人2世だった私にとって、自分の意思はなかった。合掌はダメ、クリスマス、節分、短冊はダメ。条件反射で禁止の二文字が頭に浮かぶ。

「で、本当はどうしたいの?」と先生に聞かれても「本当はやりたい」なんてエホバの証人2世は答えられない。親に体罰や愛情の削減という罰を受けるから。もしくはマインドコントロール下にあるから自分が心から行事参加を拒否していると思い込んでいる。

そこを学校の先生が強制してくれれば。自宅にまで押しかけて親と殴り合ってくれれば。それが本当に助けになったかも知れない。親の目を覚ましてくれれば。

現実的には、そんな金八先生対応は不可能。理解者としてせめて宗教が理由で悪目立ちするときに、目立たぬように隠密に「隔離」。この「配慮」があったなら。

私の感覚ではエホバの証人なんてカルトの中のカルトなので、本当に心から生徒のことを思うのなら、改宗を迫るのが筋。とはいえ、それは地方公務員の教員としての領域をハズレている。

妥当な落としどころは「親に強要されて可哀そうな子供が悪目立ちしてイジメのターゲットにならないよう、必要に応じてこっそり隔離する」という「配慮」。

「無配慮」な、行事を見学させられて公開処刑状態というのは勘弁して欲しかった。


“エホバの証人2世だった私が望んだ「強制」と「配慮」” への1件の返信

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください