学校の先生と宗教2世
『宗教2世』、Session3-2より。『当事者たちは何を語るか?』。
宗教2世の自助グループで語り合われたことで、宗教2世の子どもの学校での受難。
先生が子どもを受け止めきれていない
社会の規範と、宗教独自ルールがかち合ったとき、先生が権威勾配を使って、一方的に指導してきます
学校というシステムが、宗教を受け容れるように作られていないし、教員に宗教的個別理解以上の、さらなる2世被害者への助けを求めるのは酷かと。
先生の質に差があるので、期待しすぎると裏切られる。今年の先生は理解があった。しかし、来年の先生は真逆だったと。
この問題は、宗教2世の子どもにとっては死活問題。
宗教2世の子どもに対して、せめてもの「配慮」を
子どもが望んで宗教をやっているわけではないのは明らか。宗教2世は、親に宗教を押し付けられている。
宗教なんていう禁欲的なモノを自ら望む子どもなど、いるわけがない。強烈な例外としてごくわずかに存在するのかも知れないが、それは例外なので放っておけばいい。自分で望んで求道しているのだから、迫害だろうが孤立だろうが望むところだろう。配慮は不要。
問題は大多数の宗教2世で、保護者の仮面を被った親に宗教を強要されている子ども。本来、宗教なんて望みもしない、やりたくもないのに、その気持ちを押し殺し、自身の本心にすら気付けなくなっている被宗教虐待児。
彼らに対して学校の先生ができること。それは「配慮」くらいだろう。学校の先生は宗教に無知で、干渉する能力も、そのつもりもないのなら「配慮」だけすればいい。
宗教を理由に恥ずかしい思いをしないように、イジメのターゲットにならないように。
宗教2世に対して、わずかでも「共感」の表明を
そして、できれば「共感」と。「やりくないのにやらされているだろう。しかも、自分でそれに気づけないんだね」と、「共感」する。
押し殺して、押しつぶして消滅させてしまいそうな本心、自我を救うために、残すために。未来につなげるために。
子どもは、大人の、しかも学校での全権を握られている先生の「共感」が得られれば、自分の本心は間違っていない、学校の行事に参加したいという思いは間違っていないと、気付ける。
今は、親の強制で学校の行事に参加出来ないけど、参加したいという思いは間違っていないし、いずれ普通に参加できるようになりたいと、将来の希望につなげることができる。
“『宗教2世』の子どもたちの学校での苦難、求められる「配慮」と「共感」” への1件の返信