エホバの証人は単なる妄想族だから見逃すというのは甘い

エホバの証人のものみの塔ゲーム、組織の言うことは絶対!

昨日の記事で、エホバの証人は我々の死を待ち望んでいると書いた。ゆえに、エホバの証人に宗教的多様性を認めたり、寛容さを示すべきではないと。

しかし、エホバの証人がいくら我々が殺される日を待ち望んでいるとはいえ、それはハルマゲトンという妄想上のこと。単なるお花畑思想なので、目くじら立てず生暖かい目で見守れば良い。それが寛容さだという考え方もある。

それが甘いというのが今日の話。そしてその寛容さは表面的になものに過ぎないというのが明日の話。

エホバの証人を看過することの甘さ。

エホバの証人は、ハルマゲドンが起こらないのなら、自分たちで起こす可能性がある。というか、ハルマゲトンなど永遠に起こらないので、自分たちで勃発させる可能性が高い。

基本的にエホバの証人は神の介入を待つことになっている。しかし、その神というのが存在しない。エホバの証人は組織そのもの、ものみの塔協会を神と誤認し崇めている。

組織の言うことは絶対!のものみの塔様ゲーム中なのがエホバの証人。

エホバの証人の戒律は、組織の権力を掌握する者によって時代とともに書き換えられている。その権力者がトチ狂ったことを言い出したら?

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エホバの証人たちは組織の言うことに絶対服従。そうでない者は組織から追い出される。組織から追い出されることはエホバの証人にとって死刑宣告同然。

組織のいうこと聞きますか?それとも死にますか?がエホバの証人。

排斥というエホバの証人の死刑宣告

エホバの証人である以上は組織の奴隷。よって、エホバの証人は組織の言うことは絶対聞く。さらにエホバの証人は我々の死を待ち望んでいる。危なっかしいでしょ。組織が背教者に神の裁きをとか言い出したら?

「エホバ神は背教者たちが不慮の死を迎えることを望んでいるのではないでしょうか?私たちが神の裁きを代行できるのは、とても喜ばしいことではありませんか?」

もともと輸血拒否で命を軽んじちゃう連中。暴走し始めたら、どこまで行くか分かったもんじゃない。だから、多様性とか寛容とかをカルトに適用するのは甘いんだって。

当然、心の中でエホバの証人が我々の死を望んでいる、はたまた暴走して牙を剥く可能性があるというだけで、エホバの証人をぶっ潰すことは出来ない。それこそ思想犯をとっ捕まえてた暗黒の歴史の再来。

だから、そんな危険な連中であることを念頭におきつつ、適切な且つ常識的な理由でエホバの証人をぶっ潰そう。輸血拒否と児童虐待、児童性虐待の三本柱で充分でしょ。


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