エホバの証人の排斥とは
私の両親はエホバの証人という宗教の信者だった。エホバの証人というのは、エホバ、ものみの塔、JWなどと呼ばれる新興宗教。
父は、教団内で会衆の長老という立場だった。会衆の100名弱の信者を束ねる役目。自宅にはものみの塔協会の日本支部から、長老宛ての手紙が何通も送られてきた。
それらの手紙の一部は、エホバの証人の集会所「王国会館」で読み上げられて、発表されることもあった。それ以外に、”内密に”と指示されている文書も多く存在した。
内密文書には、会衆内の信者の排斥処分に関わるものも含まれていた。他にも不合理な指示や、良く考えると納得の出来ない内容の手紙もあったはずである。
排斥とは教団からの除名処分のこと。ものみの塔の戒律に一定基準以上で反していると認定されると、教団からの排斥処分となる。
疑いがある場合、2人以上の証人がいればクロとみなされ、審理委員会という強権的な場で一方的に裁かれる。輸血をした、不貞を働いたなどはもちろん、喫煙を目撃されてもアウト。
背教じみた言動をしている場合にも厳しいジャッジが下される。エホバの証人組織の中では、出る杭は徹底的に打たれる。ものみの塔協会発行以外の聖書関連本の所持もアウトとなる可能性が高い。それがキリスト教に対する熱心さゆえでも関係ない。背教本とみなされる。
上の立場の人間に楯突いて、目をつけられると組織を追い出される可能性が高まる。細かいことを指摘されて排斥処分になる。逆に上層部の人間に媚びを売って、関係を上手く保っていればセーフとなるケースも。有名人は良い宣伝になるし有効な資金源なので排斥されないという説も。
エホバの証人の排斥処分を決定するのは神の意思ではなく、単に人間の好き嫌いや損得に基づいている。
救いや癒しをもたらさないエホバの証人という宗教
ものみの塔は終末論で信者を集めている。来たる終末「ハルマゲドン」を生きて通過できるのは正しいエホバの証人だけという設定になっている。
ものみの塔のマインドコントロール下にある信者にとって、教団からの排斥処分はハルマゲドンでの死、滅びを意味する。排斥処分イコール死刑宣告。
兄弟姉妹と呼び合い、支えあってきたつもりのエホバの証人だが、排斥となれば以降の交友は禁止。街で偶然会っても挨拶は禁止。一緒に食事でもしようものなら巻き添えで自分まで排斥となる。それは例え夫婦、親子、親族でも同じ。
エホバの証人とは夫婦や親子、友人という最小にして密接であるべき人間関係の良好維持さえ許さない宗教。最も基本的・原始的な人間関係よりも組織の秩序を上位に置いている。そんな宗教に何の意味があるのか。
一見、楽しそうに穏やかに保たれている会衆内の秩序だが、彼らの裏面を見ると妬み、密告、監視が充満した、とても熱心なキリスト教信者の集まりとは思えない醜態。
信者の個人的な問題の解決方法は、頭でっかちの特権至上主義の組織人間である長老による相談と祈り。そんなモノが、本当に問題を抱えている人々の癒しになるはずがない。さらに重大事項については上からの指示を鵜呑みにするだけ。伝書鳩。
排斥処分=死刑宣告となる非情な指示勧告にも、私の父は従わなければならなかった。それが組織内で”責任ある立場”にある長老の務めだった。
父がエホバの証人をやめる一因となったのは、個人的な問題や人間関係のもつれ。さらに、それらの問題の解決に、何の役にも立たないものみの塔の本質にあった。
救いや癒しをもたらさない宗教には何の意味がない。救わないだけならまだしも、排斥という死刑宣告で信者を脅す凶悪さ。
“排斥というエホバの証人(JW)に下される死刑宣告” への3件の返信