14才、エホバの証人2世の悩み、怖いのは排斥じゃない

エホバの証人が恐れる排斥処分とは

エホバの証人の信者で、宗教活動への参加が不定期になり、そして全くゼロにという人のことを、”組織を離れた”と、現役信者たちは言う。やめたわけではないし、いつでも門戸は開かれている、むしろ、いつでも戻ってきて欲しいというニュアンスを含んでいる。

しかし、組織から破門状態になる排斥処分は全く別。故意に戒律を破ったり、背教めいたことを口にしたりすると、組織から追い出される排斥処分になる。

組織側の現役エホバの証人は、排斥者と街で偶然会っても会話をしてはいけない。一緒に食事をするなどもってのほか。挨拶ですら禁止。排斥者に不用意に関わると自身まで排斥になりかねない。

教義に反した罪人とされる人に、救いの手を差し伸べない態度はいかにも幼稚。宗教者の風上にもおけない了見の狭さ。この事実は、エホバの証人は宗教人でなく、ただの組織人であることを示している。組織上層部からの命令には何が何でも従う組織崇拝者。

幼い頃から深く洗脳されたエホバの証人2世の子供にとって、排斥処分というのはとても恐ろしく感じられる。

幼い頃からエホバの証人という狭いコミュニティの中で育ち、エホバの証人以外に同じ年頃の友人など存在しない。教団は信者以外の人との交友を避けるよう推奨しているから。

エホバの証人2世は季節毎の行事に参加させて貰えない。そんな変わり者のエホバの証人2世が教団外の友人を作ることは難しい。

組織内の人間関係に依存しきっているのは大人の信者も同じ。教団から追い出され、村八分にされるのは恐怖。

精神的な面だけでなく、経済的にもエホバの証人組織に依存している場合もある。勤め先がエホバの証人経営だったりすると、排斥処分になるのは手痛い。仕事と信条は別、といった融通のきいた考え方ができないのが組織崇拝者のエホバの証人。

排斥というエホバの証人の死刑宣告

死ぬ気になればエホバは怖くない

14才、エホバの証人2世の悩み

私は小学校高学年の頃からエホバの証人をやめたいと考え始めた。そして、14才の秋に、やっとエホバの証人をやめることが出来た。

私は物心ついた頃には既にエホバの証人の王国会館に通い詰めで、そこにいる信者や2世の子供たちに混ざって成長した。しかし、万が一排斥になって教団内の人々から忌み嫌われ、無視されるという状況を想像しても、それは全く痛くも痒くもなかった。

幼なじみと言える2世の友人とは、小学生のときの引越し以来、音信不通。そして、現在の周囲にいる、とことん田舎育ちのエホバの証人2世たちには、何の魅力も感じなかった。

大人の信者にしても同じ。コンビニまで車で30分もかかるようなところに住んでいる田舎者のエホバの証人に、魅力的な好人物はいなかった。(田舎暮らしを否定しているわけではありません。10代の私がそう感じていただけ。)

ただ、両親だけには愛情を注がれていると感じていたので、別の感情があった。

両親を大切にしたい、悲しませたくないという思いと、エホバの証人から自由になって自分の好きなことに熱中したい、禁止されていることを好きなだけやりたい、自分の時間を自分のために使いたいという対極の思い。それが14才の私の中で交錯していた


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