笑えないエホバの証人2世の子供
私がエホバの証人(JW)2世だった頃の古いアルバム。子供の自分の目が虚ろ。写真の中の私は全く笑っていない。居並んだ人々の中で一番端に立ち、ぼんやりと虚空を眺めている。エホバの証人2世だった頃は、世界に現実味が無かった。
エホバの証人とは自称キリスト教系の新興宗教。米国発祥で日本ではものみの塔聖書冊子協会が宗教法人格を有している。2世というのは、宗教2世とも言われる。親の宗教を強要される子供のこと。
子供の頃の私は、「いつかエホバの証人をやめたい」と、そればかり考えていて、エホバの証人である自分を認めることが出来なかった。今の自分は偽物だと感じていた。
そうして私は14才までを成長した。目に見える景色は灰色だった。エホバの証人をやめたいと模索し始めた10才あたりから14才でエホバの証人をやめるまで、楽しいことなど何ひとつ無かった。
エホバの証人だった頃の楽しい思い出が一切無いという訳でもない。私は9才のときに両親と引越しをしているのだが、そのときに開かれた私の家族の送別会の記憶は残っている。
この送別会は、引っ越す前に”交わっていた”エホバの証人の会衆の信者たちで開かれたもの。
エホバの証人は信者間の交流を”交わり”と称する。これには特にいやらしい意味はない。会衆というのは、地域単位にまとめられたエホバの証人の単位のことで成員人数100名程度。
当時私の家族が住んでいたのは大都市の郊外で、引っ越し先に比べるとだんぜんに都会だった。エホバの証人の会衆の規模も大きく、私の家族の送別会は大きな公民館のようなところを借りて行われた。
エホバの証人だった頃の楽しい記憶
この頃、その会衆では引っ越す人が立て続けにいたような気がする。ちょうど3月だったというのもあるし、転勤族が多く住んでいたような土地柄でもあったからだろう。この会衆では信者が引っ越す度に送別会を開いていた。
送別会と言っても酒を飲むような宴会ではなく、ちょっとしたお菓子とジュースが並べられる程度。
送別会の前後に祈りや賛美の歌があったかは覚えていない。送別会に面倒な記憶もなく、楽しい思い出しかないので、もしかするとさっと集まって開始して終わったらさようならという感じだったのかも知れない。
しかし、それだと締まりがないので、やはり面倒くさいことに祈りや賛美歌で送別会の前後を飾っていたような気もする。それでも、この手の送別会は珍しく楽しいエホバの証人の記憶。
通常の集会のように長々とした講演がある訳でもないし、ものみの塔誌の質疑応答がある訳でもない。2世信者の子供たちを中心とした聖書劇の用意するのは楽しかった。劇中で使うお面を被って喜んでいた記憶がある。
エホバの証人の偽の記憶
この会衆で立て続けに開かれていた送別会だが、私の家族の送別会が最後に開かれた。引っ越してしまった後で、他の人の送別会が開かれていても知りようがないのだが。
私の家族の送別会は、それまでに開かれていた誰の送別会よりも盛大に開かれ、びっくりするような出し物や心温かい思いやりで彩られていた。何となくくすぐったく感じたのを覚えている。
私は学校の友達と離れたくないから、「引っ越したくない」と言っていたのだが、このエホバの証人の会衆には自分と同じような境遇の子供たちがたくさんいた。
私は物心ついた頃から王国会館に連れていかれていたので、幼なじみのような子供たちもいた。お互いに懲らしめ(体罰)という受難に至るのを目撃しあった戦友だったり、大人のいないところでケンカをしたりという友人関係。
このエホバの証人2世たちが私に対して温かい言葉をかけてくれたり、それぞれの特技を披露してくれたりしたのである。何とも心温まる楽しいエホバの証人の記憶。しかし、
このエホバの証人にまつわる楽しい記憶は全部偽物なのだ。彼らが私の家族を暖かく送り出してくれたのは、我々がエホバの証人だったから。エホバの証人から受けられる温かな愛情は、相手がエホバの証人ならばという条件付きのもの。
エホバの証人は、相手が背教したら排斥処分にして激しく疎外する。
私の家族の送別会が盛大に開かれたのは、両親が長い間熱心にエホバの証人として活動していたから。”模範的な”エホバの証人だったため、信者たちは温かくもてなしてくれたのである。こんな限定的・条件付きの人間関係には何の意味もない。