エホバの証人の女が抱える虚しさ
『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』より。
エホバの証人に堕ちるのは、圧倒的に女性が多く、堕とす方、勧誘する方も女性が多い。エホバの証人は女性のコミュニティとしての役割を果たしており、群れたがる彼女たちの習性を充たすことで、かつて信者を、組織を忌々しいほどに増殖させてきた。
しかし、この女性たちが堕ちた先がなぜエホバの証人だったのか。お料理教室やご近所付き合い、今でいうところのママ友、職場や学生時代の旧友との安全な付き合いでなく、なぜ危険で濃密なカルトでなければならなかったのか?
その核心に迫るような迫らないような、第七章 女。
輸血拒否で亡くなった被害者児童の母親。後に輸血拒否で失う子供を身ごもった頃から”むなしさ”を感じるようになった。それに対し筆者は
その”むなしさ”とやらがどうしてもピンとこなかった。まるで命の塊のような子供を二人も授かり、むなしい母親なんているものなのだろうか
と書いている。
みずみずしい生命の塊を前にして、その生命の塊でさえも有限の生命で、さらに自らの生命は下る一方。一塵の虚しさが吹き抜けてもおかしくはない。とはいえ、
人生なんて虚しいもの。巨万の富も才能も、寿命の前にはほとんど役に立たず、美貌も若さもいずれ衰える。人生は有限で虚しい。人によってはみすぼらしくさえある。
それが古今東西、ありとあらゆる人類、英雄から凡人に至るまでの普遍のルール。人間の一生は限りあり、それゆえにどこか虚しさを伴う。
輸血拒否が子供の意思であろうとなかろうと、ものみの塔の罪は重い
女性であること、孤独であることはエホバの証人であることの許しにはならない
“虚しさや孤独を埋めるために悪事に手を染めるエホバの証人の女たち” の続きを読む