元エホバの証人二世の女性が書いた『解毒』
元エホバの証人2世の女性が書いた『解毒』。エホバの証人の子どもの境遇が克明に描かれている。現役のエホバの証人の人が隠れて読むなら電子書籍がおすすめ。
子どもに価値観を強制するエホバの証人の親
「子どもが生きがい」となっている親の場合、子どもにとっては、その期待やプレッシャーが大きな負担となることが多い。子どもは、「親の理想を叶えるための道具」ではない。たとえ親子であっても、それぞれに「自分の価値観」や「自分の世界」を持つことが必要
これはエホバの証人の親子以外でも、通常の親子関係でもあてはまること。子どもには子どもの人格、個性、長所がある。親はそれを見極めなければならない。自分と違って当然。自分だって自分の親とは違う一個の人間でしょ。ならば子どもだって親と違って当然。
こういう考え方が出来ないのがエホバの証人の親。自分がエホバの証人ならば、子どももエホバの証人になって当然と洗脳されている。私も両親によく言われた。「お前が大人になってベテルに入ってくれたら嬉しい」と。
ベテルというのはエホバの証人の本部に隣接する出版工場+社員寮のような所。ものみの塔協会の出版物を制作・印刷しつつ、そこで生活する。世俗の仕事をせず、ものみの塔協会に全てを捧げるという人生終わっちゃった人々が若くして入る所。
こんな所に一人息子を入れたいと、自分の価値観をエホバの証人だった両親は私に押し付けてきた。
エホバの証人に欠如している無償の愛
子どもというのは、本来、親から無償の愛情をもらうことで初めて『自分は生きていてもいいんだ』という自己評価をすることができる
無償の愛をもらうことができないと、子どもは親を疑うことをしないので、努力で自分の存在価値を買おうとする
エホバの証人の愛は限定付き、条件付きである。特定のものだけに注がれる。それは家族・親子・友人すべての関係において。特定の条件を充たした隣人、家族だけがエホバの証人から愛される。
とても愛に満ちている宗教組織とは思えない姿勢。エホバの証人によって愛される特定条件は、対象者がエホバの証人であるということ。エホバの証人はエホバの証人しか愛さないのである。何とも排他的な組織である。
エホバの証人が子供に対して愛情を示しきれない二つの状況
これは親子でも同じ。エホバの証人の親も、子どもを普通の親と同じに愛するのだが、子どもからしてみると、自分が真面目なエホバの証人でなければ親の是認を得られないと思い込む。
というのは、ものみの塔協会の戒律に背けば、親からは体罰を受けるし、親は家族の予定よりもエホバの証人の行事を優先する。これは子どもにしてみれば、親の愛は限定的なものに感じられる。
とはいえ、エホバの証人の親は子供を愛さない訳ではない。私も親の愛情を感じてはいた。故にエホバの証人を辞める時に、親と違う道を歩むと決断することに苦悩した。こんな苦労を子どもにかける親は完全に毒親なのだが、どんな毒親でも親は親。
それでも、エホバの証人の親はその愛情を完全に示しきれない時がある。主に二つのケース。
子どもの命をかけるエホバの証人の輸血拒否
一つ目のケースは、子どもが輸血しないと死ぬという時。エホバの証人の親はどうするか?エホバの証人組織の戒律を優先し、断固、輸血拒否。子どもの死をも厭わない。これで本当に子どもを愛しているとは、なかなかに言いずらい。
私の親も、私が輸血を伴う手術をしなければならなくなった時、迷わずに輸血を拒否していた。自分の信仰の美しさに嬉々としているかのような母親の表情を見るのは、幼いながらに私にとっては複雑な心境だった。
幸いにしてこの危機から、私は無輸血で生還したのだが、それは結果論。私が死んでも構わないという決断をしていたことは曲げようのない事実。
これで本当に愛していると言われても、信じない訳ではないのだが、やはり限定の愛情だと言わざるを得ない。無条件の愛情ではない。
子どもが排斥されるとエホバの証人の親の愛情は消える
エホバの証人の親が子供を愛しきれない二つ目のケース。それは子どもがエホバの証人組織から排斥された場合である。この場合も、エホバの証人の親は組織の掟に従い、排斥された子どもを忌避する。
子どもへの愛情より、ものみの塔協会の戒律を優先するということ。これがエホバの証人の限定的愛情、無条件の愛ではない証拠。『解毒』の作者もこのパターン。作者本人は組織から排斥され、洗脳下にある母親の愛が条件付き愛情であったことが確定するシーンは悲劇。
排斥にならずにエホバの証人を辞めるには、下記の記事を参照
エホバの証人をやめるときの3つの注意点(正しい脱会方法のまとめ)
“『解毒』~エホバの証人が持たない無償の愛” への2件の返信