エホバの証人の愛情は条件付きの限定愛
昨日紹介した『てい少年と悪魔サタン』という本より。著者は2世信者なので、エホバの証人である毒親との関係が幼少期の根幹となる。作中で出てきた話が、親が子どもに示すべき愛情について。
子どもは無条件の愛情で育てて下さい。
いつも賢くしてるからかわいいとか、親のいう事をきっちり聞くから大好きとか、そういうのはダメ
・・・それは条件付きの愛情
産まれてきてくれたそのまんまのあなたが好き!あなただから好きなんだ!と・・・これが正しい親としての考え方
親が子どもに注ぐべき『無償の愛』というのは、他の脱会本でも出てくる重要なキーワード。『解毒』~エホバの証人が持たない無償の愛
エホバの証人の親が子どもを愛するのは、子どもがエホバの証人であればという限定愛。エホバの証人がエホバの証人に対して抱く友情・隣人愛も、対象者がエホバの証人であればという条件付き。
つまり、エホバの証人組織から排斥された者であれば、親子の愛情も友情も隣人愛もすべて吹っ飛ぶ。
※2024年追記、排斥関連は若干緩和されたのだが、背教反対者に対しては同様。エホバいない。エホバの証人ニセモノという人が、エホバの証人から愛を抱かれることはない。騙されている哀れなヒツジに真実を教えてやっているだけなのにね。
エホバの証人の親は行動で無償の愛を示すことはできない
親が子に対してエホバの証人ならばという限定愛しか示さなくても、子どもは親に対して無償の愛を抱くことができる。そうしなければ生きていけないから。
その子どもの立場から親を見ると、親は子である自分に対して無償の愛を抱いているのか?エホバの証人の子どもがそれを確認するのは難しい。感じるしかないのだが、エホバの証人の親子だと、無償の愛を感じるのは、たとえ親がそれを抱いていたとしても難しい。
毒親の行動だけ見れば、無償の愛など感じられるわけがない。週に1度は、ミミズ腫れになるくらいお尻を叩かれる。虐待という行動から、無条件の愛など感じられるはずがない。
学校でどんなに辛く恥ずかしい思いをしようが、選挙や季節の行事への参加は認められない。スポーツクラブに入りたくてもダメ。見たいテレビも見てはダメ。漫画もゲームも音楽もほとんどダメ。たとえクラスメイトの家であっても、臆さずに布教活動のために呼び鈴を鳴らさないとダメ。
このダメダメ制限をされる限り、子どもはそれが親の無条件の愛とは思えない。ダメダメ制限は無条件の愛から出るものではない。ものみの塔の戒律遵守者への限定愛。
何でもOKの甘やかしが無償の愛かと言われればそれも違うのだが、
全部ダメダメは確実に無償の愛ではない。子どもの望むもの、可能であれば何か一つだけでも叶えてやりたいと思うのが親の無条件の愛。学校で苦しむ子どもの姿をできるだけ見たくないのが親の愛。全部ダメダメは思考停止して、ものみの塔基準で子どもを縛っているだけ。
このように、エホバの証人の親は行動で無償の愛を示すことは不可能。であれば、エホバの証人の子どもはどうやって親の無償の愛を感じるのか?これは目で見たり、口で話したりでは表現不可能なので、本当に「感じる」ことしかできない。
家族が無償の愛を抱いているか確かめる方法
私は親の無償の愛を感じていなかったので、14才でエホバの証人をやめると決断したときに、両親とは永遠の決別を覚悟した。そして、この時に初めて両親は、子の私に無償の愛を持っているか試されることになった。
結果、今では私は無償の愛で親に守られていたと感じている。親が現役エホバの証人だった頃は感じられなかったが、私がエホバの証人をやめた後の態度、彼らがエホバの証人をやめた後の態度からは、無条件の愛を感じられた。
これが、私が最後の最後で道を踏みハズさなかった理由なのかも知れない。ある程度は道を踏みハズしたけど、両親の無償の愛が、殺人とか強盗まではしなかった防波堤になった可能性がある。
明日にでもハルマゲドンで死ぬと思っていたから、銀行強盗くらいはしかねない精神状態だったのだが、そこまで堕ちなかったのは、親の無条件の愛を、エホバの証人をやめた後で感じられたから。
親の無条件の愛を感じられない人はいる。親が無条件愛を持っていなければ感じようがないから。親が無条件愛を持っているかどうかは、エホバの証人をやめてみて、試すしかない。無償愛実験。
結果、親の愛がやはりエホバの証人限定愛だった場合、どうなるか?この点もこの本に書いてある。つづきはまた明日に。
宗教2世の声、子どもは親を喜ばすために生きているわけじゃない
“親の無条件の愛を感じるには、エホバの証人をやめるしかない” への3件の返信