『ニュータイプの時代』、ものみの塔サバイバーの倫理観

反ものみの塔活動のモヤっとポイント

『ニュータイプの時代』、第4章の「ルールより自分の倫理観に従う」の部分で、今まで何となくモヤっとしていたことがスッキリ。

このブログを始めとした私の活動は反ものみの塔の意思で動いている。この世界に必要のないものみの塔を消滅させ、世界を正しい姿に戻したい。そのためにはエホバの証人の一人一人にはものみの塔を脱会、一般人に戻って貰う必要がある。

私のもやもやは、そこまでして良いのか?ということ。

信教の自由、基本的人権という盾の下、この国には人間がどこまでも愚かになる権利すら認められている。

人間がどこまでも愚かになる権利とは、輸血拒否して死んだり死なせたり、不毛な宗教活動に打ち込み公共の益を損ねたり、世界の終末とその後の永遠の命を妄想したり。

エホバの証人をゼロにするということはその権利を踏みにじることになる。私としては、それは全然構わないと考えている。人間がどこまでも愚かになる権利など認める必要がない。

とはいえ、法治国家のこの国で「思想、信教の自由が云々」とか「信じるものは否定するが信じることは否定しない」とか「個人が信じることで誰にも迷惑かけていない」などと言われると、それもそうかと。

単にものみの塔が目障りで、私怨でやっているという本音の一部は決してさらせない。勧誘したり、子供に強制したり、そもそもの時点でマインドコントロールされて騙されているんだから、信じるものが邪悪である以上は信じることすら否定する必要がある。程度の反論しかできず堂々巡り。

これがモヤッとポイント。ここを救ってくれたのが本書。

キングオブカルト、エホバの証人

ものみの塔聖書冊子協会に電凸した話の続き、体罰推奨協会

この国の未来をどうしたいか?カルトサバイバーの倫理観

私たちは一般に「決められたルールに従う」ということを無条件に良いことだと考え、何かを判断しなけらればならないとき、まずルールを確認し、確認したルールに立脚して判断しようと

する。しかし、この思考様式には問題があると本書は続く。

そもそも規範そのものに倫理的な問題がある場合、規範に従うことで多くの人が倫理を踏み外すことになる

過去、肌の色で差別がなされたり、同性愛者に対する理解が無かったり、今から思うと野蛮な時代。

本書ではかつて白人専用のバス座席が法で定められていたことを例に出している。その規範を破ったために逮捕者が出た。それが「バスボイコット事件」につながり世界が変わる。

変わる前の世界と変わった後の世界では、規範そのものもまた変わってしまうことになります。事件「後」の世界から見れば、事件「前」の世界の人々は、いかにも無知蒙昧で野蛮な人々に見えることでしょう。しかし、ここに落とし穴があります。そう、私たちが現在、考えることなく無批判に従っている規範の多くもまた、これから「後」の時代の人々から見れば、いかにも無知蒙昧で野蛮なものにきっと見えるだろう、ということ

子供の自由を奪い、信者をマインドコントロールするカルトが野放しにされている現在。未来から見ると異常で無知蒙昧な時代に見える。

かつて、肌の色で差別していた社会規範があった。現在には、なぜかカルトにまで信教の自由を保障してしまっている社会規範がある。

未来から見ると信じがたく愚かな現在を正す必要がある。カルトは要らない。カルトに信教の自由はない。カルトはぶっ潰せ。

私は、身をもってカルトのヤバさと有益なものを何も産まない非生産性を知っている。それだけならまだしもカルトは激ヤバモンスターを発生させる。宰相を暗殺してみたり、児童性虐待の温床になってみたりと。

信教の自由を保障した法など関係ない。その法解釈と社会的規範がおかしいのだ。

将来この国がどんな方向に進んでいて欲しいか?人間がどこまでも愚かになる権利を容認し、輸血拒否だったり、子供に体罰を与えたり、ひたすらに現在を否定し、見えない力による世界の終末を願う妄想集団の増殖、そんな未来が良い?

違うよね。だったら今、この現在を変える必要がある。

私は自身の倫理観に従って行動している。その倫理観とは「騙され人生を圧倒的に損なうエホバの証人を放っておけない」。ものみの塔の正体を知ってしまった者、生還者の倫理。


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