ラッキーナンバー666、元エホバの証人の数字の話

エホバの証人の陥る迷信

エホバの証人の親のような者の思考状態

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十一章 説得」より。

エホバの証人の少年が、信条による輸血拒否で亡くなった川崎事件。その事件が起きたのが昭和60年6月6日。この6が続く日について、エホバの証人が

あの日は不完全数の六が三つも続いたからな

と。だからこの事故が起こったとでも言うのだろうか。迷信に左右されるマインドコントロール信者の発言。そんなしょうもないことに心をとらわれているから、エホバの証人になって人生を棒に振ってしまう。

6というのは神の数字ラッキーセブンの7に対して、悪魔の数字。という設定。

6が3つ続く日付だからという理由でエホバの証人の少年が命を落としたというのだろうか。エホバの証人の少年が亡くなったのは、エホバの証人の教義に従って輸血拒否したから。日付は関係ない。

そもそも、悪魔の数字の日にエホバの証人が死ぬなんて、悪魔のほうが神より力があるということ?

さらに、昭和60年和暦の6は、昭和天皇の即位に合わせた年。エホバの証人は人間を崇拝しないという設定なので、天皇に対する敬意は相当に薄い。その昭和天皇の年号の60年の6が効力満点の数字みたいに言っている時点でまぬけな矛盾。

エホバの証人の「体質」改善

666を避ける元エホバの証人

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エホバの証人 > 大なりわが子、エホバの証人の親のような者

エホバの証人の親のような者の思考状態

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十一章 説得」。本書のクライマックス。

昨日の記事で、マインドコントロールが進行すると、エホバの証人の親は「親のような者」に成り果てると書いた。その親の思考状態が下記のように本書で描かれている。

目の前で死にかけている子供を見て、輸血をすれば助かるという場面。

輸血してもらおうか

と考える。しかし、

ふと、自分を迎えてくれたエホバの証人たちの温かさを想い出した。今輸血を認めれば、彼らからは離れなければならなくなる

この迷いも一因となり、頑なに輸血拒否を続け、子供を絶命させた。

本当にこの父親が、エホバの証人から離れるのがイヤで子供の輸血を拒否したのか、本人の心の内までは分からない。とはいえ、エホバの証人の親のような者の心情をうまく説き明かしている。

輸血拒否の最大の要因は、将来の祝福を子供本人も含め失うというエホバの証人の教義設定。さらに、組織から追い出されるのも怖い。前者はマインドコントロールゆえの思考なので、トホホンとしか言えないが、後者はなんとも自己中心的な思考。

やっと見つけた温かい居場所を失いたくないという稚拙な発想。子供の命を救うために最善を尽くすべきタイミングで、この自己都合が混じるのがエホバの証人の親。まさに親であって親ではない親のような者。

エホバの証人 > 大なりわが子の、親のような者

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脱JW・元JW(エホバの証人)・脱会予備群に対するタカ派意見

脱エホバの証人に対するタカ派意見

JW(エホバの証人)関連のSNSなどで、「いつまでもJW引きずってんじゃねぇ、やめたいならとっととやめやがれ」的なタカ派意見を目にすることがある。自分もかつてほとんど同じ考えだった。私がJWをやめてから20年間くらい。

私はJWをやめたあとは全力で遊び、仕事に打ち込んだ。JW的なものは生活のすべてから完全シャットアウト。飛び込んでくる自宅への伝道者も、ドアを開けた瞬間に彼らと分かればドアを閉じた。

そうして過ごした20年。タカ派と少し違うのは、JWとかエホバの証人と口にすらしなかった点。つまり、「いつまでもJW引きずってんじゃねぇ、やめたいならとっととやめやがれ」と思っていたけど、一切口にはしなかった。

完全なる一般人として過ごしていたので、「エホバの証人」と言ったところで誰にも通じなかっただろうし、周囲にエホバの証人関係者が皆無だった。そうなるように自身の周辺環境をデザインした。

エホバの証人という禁断のワードを持ち出したのは、エホバの証人の「残りの者」の人数をネットで調べようと検索したとき。ちなみにこのときに私の洗脳が解除された。

もう一度は現在の妻と付き合うとき。マジメに付き合うなら、さすがに自分の出自を明かすべきかと考え、エホバの証人2世という過去をカミングアウトした。

エホバの証人を完全シャットアウトした20年。その間、エホバの証人と発声したりキーボードに打ち込んだのは、たったのこの2回。今だと「え」の予測変換で「エホバの証人」と出てくるので、1日に100回近く打ち込んでいる気もする。現役時代にもない熱心さ。

エホバによって引き裂かれた自我、その再統合のための反エホバ

元エホバの証人2世の宗教観、妄信と暴走の果ての信念

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エホバの証人(JW)の少年、罪の贖いのために流れた血

エホバの証人11才、初「割り当て」の前に

私の初「割り当て」の晩に流れた贖いの血。

エホバの証人の割り当てとは?

割り当てが贖いを必要とする理由とは?

11才の少年の日々。砂山で遊んで砂だらけになった私は家に帰る。しかし今日はエホバの証人の集会の日、しかも初の割り当て。砂だらけになるまで遊べば、両親に怒られるのは目に見えている。

とはいえ、これが子供ながらの私のバランスの取り方だった。エホバの証人の子、カルトの子として窮屈極まりない日々。学校でも恥ずかしい思いと苦労のオンパレード。

そして、その日の晩はやりたくもない初の割り当て。数十人の信者の前で自作の宗教話をしなければならない。その前に、一旦無心で遊んで心身をリセットしたのだった。

この息抜き方法が限界に迫った数年後、私は人生そのものを終わらすか、エホバの証人をやめるかの選択を迫られる。

とりあえずその日は、親に怒られる前に砂だらけの服を払い、エホバの証人の集会に出かける服装に着替える。

そこで思い出したのは砂だらけになった靴。割り当てのために上がる壇上へ、砂を引きながら向かうわけにもいかない。靴の中の大量の砂を出すことにした。

エホバの証人の初割り当てという罪の贖いのために流れた血

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エホバの証人の子ども、初「割り当て」の日に流れる贖いの血

エホバの証人の子どもの初「割り当て」の持つ意味とは

昨日の記事で、エホバの証人の子供にとって初めての「割り当て」が大きな意味を持つと書いた。その意味とは?

エホバの証人の割り当てとは?昨日の記事にて。

ズバリ、罪。

人前でカルトの講演を行うという罪。しかも、自分で入念に考え丹念に練習して臨む場。巧みな話術で人々をたぶらかす悪の所業。

本人には罪の意識などない。だからといってカルト講話が敬虔な行いに転化されるわけなどなく、罪は罪。

子どもの5分程度の幼稚な小噺など、誰もマジメに聴きはしない。それでも、子どもの真摯なひたむきな姿に心を動かされた人がいたら。今どきそんな純粋な人はいないのかも知れないが、私の子どもの頃は、そんなふうにしてエホバの証人になった信者がゴロゴロいた。カルトの広告塔としての罪。

壇上の少年が自分の子どもと似たような年齢で強く感情移入してしまったり、元々感情が動かされやすいタイプだったり。既にカルトの集会所に来ている時点で予備群ではある。騙される素養満点。

子どもが必死に割り当てを果たす姿に、心を動かされる大人。

他人の人生を狂わす罪。

エホバの証人の子どもにとって、初めての割り当ては、罪深い道への第一歩。

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』~偶然サバイバルした者の務め

エホバの証人の子ども、初割り当ての日に流れる贖いの血

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エホバの証人(JW)の割り当てとは?assignment?

エホバの証人川崎事件の少年と初めての「割り当て」

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十章 道」より。

エホバの証人の輸血拒否事件、川崎事件を扱った本書。被害者児童が亡くなったのは1985年6月6日。本書によると翌6月7日はこの少年の「初めての割り当て」だったとある。

エホバの証人の割り当てとは?

正式なエホバの証人になるには、段階を踏む必要がある。ここでいう正式というのは献身、バプテスマという儀式を受けること。この儀式を受けたエホバの証人は、組織内で「兄弟、姉妹」と呼ばれる。

亡くなった少年も、断固輸血拒否したその父親も献身しておらず、まだ「兄弟」ではなかった。マインドコントロールの危険度合いは献身宣言の有無には依存しないということだが、エホバの証人の目指すところは、一旦はこの献身である。

仲間内から「兄弟、姉妹」と呼ばれる、馴れ合いの疑似家族空間の仮想温もりがこのカルトの一端を支えている。私みたいにこの馴れ合い環境を気持ち悪いと思う者は、ズブズブ馴れ合い信者に比べれば、脱会へのハードルは低い。

自称「伝道」、エホバの証人のねずみ算的集客システム

エホバの証人のバプテスマとは

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エホバの証人の川崎事件、無垢の少年を殺したのは何か?

エホバの証人の輸血拒否

エホバの証人の少年は、なぜ死ななければならなかったのか?

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十章 道」。エホバの証人の川崎事件で、亡くなった児童が当日に走った道。そして、この宗教に堕ちる哀れな人々が歩む精神的な道。その二つの道を走破・考察する第十章。

被害者児童はなぜ死んだのか?それはエホバの証人の教理により輸血拒否したためなのだが、その前段、なぜ事故に遭ったのか?本章では、その詳細が明かされている。

夕方、少年は自転車で家を出た。行き先はエホバの証人の信者の家、目的はエホバの証人の宗教本研究のため。つまり、

当初からエホバの証人に関係しなければ、事故に遭うことは無かった。

エホバの証人の人命軽視

エホバの証人は、永遠の命を持った完全体に生まれ変わるという幻想を、強く抱いている。そのため、現在の限りある不完全な命を、心の奥底では軽んじている。

エホバの証人による命の軽視傾向は普段は具現化されることはない。神より与えられた現生命を大事にせよ、という建前にはなっている。しかし、

川崎事件ではエホバの証人の人命軽視主義を、証明してあまりある悲劇の結末を迎えた。

エホバの証人、カトリックの病院はOKなのに輸血がNGな理由は?

エホバの証人の輸血拒否は生命に対する冒涜、生きて償わせるエホバの証人の穢れ

名ばかりの保護者、エホバの証人の親

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元エホバの証人2世の宗教観、妄信と暴走の果ての信念

反エホバという宗教観による暴走

昨日までの記事で、反エホバは私にとって宗教だと書いた。この反カルト思考はもはやカルト。同じ穴のムジナ。毒を以て毒を制す状態。自分でも危うい妄信・暴走の観もある。

とはいえ、エホバの証人組織=バッドだけはまかり間違えようのない真理。濃淡こそあれ方向性は正しい。

エホバの証人2世の私、かつて10代の頃の自我の芽生えと分裂の危機を救ったのは、この反エホバ思想。反ものみの塔思考が10代後半の私の自我を再統一した。

この固い信念で私は突っ走る。エホバが創造主だろうが何だろうが関係ない。一瞬を、刹那を全力で生きるオレの邪魔をするなと。

ものみの塔の洗脳下にあった私は、終末ハルマゲドンの勃発を信じていたので、刹那具合はさらにマシマシ。20才まで生きられるのかは不明、童貞のまま神に滅ぼされてなるものかとひたすらに励んだ。

元エホバの証人2世の宗教観

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エホバによって引き裂かれた自我、その再統合のための反エホバ

分裂の危機にある自我を統一するのが宗教

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第九章 子」から。

ものみの塔を解散させ、エホバの証人をゼロにする。この思いは私にとって既に○○。と昨日の記事で書いた。

この○○とは「宗教」。

ものみの塔を解散させ、エホバの証人をゼロにする。これはもはや私にとっての宗教。

宗教について、この本『説得』では以下のように他の文献からあらーく引用している。

ウイリアム・ジェイムスが、その膨大な著作のどこかで“宗教というものは、何らかの理由で分裂した自我を、再び統合する力である”という意のことを言っていた

現代社会において、子供がエホバの証人という宗教を親に強制されれば、いずれこの状態に至る。自我の芽生えと分裂。

自我の再統合に、そのまま宗教としてのエホバの証人を求めると、人生がほぼ終わる。そのままエホバの証人の大人になり、自分を押し殺したままの生活が続く。圧倒的な精神的不健康。精神を病んだり、文字通り自ら人生を終えたり。

私の場合は再びの自我の統一に使ったのが、反エホバという強い意思だった。

反エホバという宗教

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虚しさや孤独を埋めるために悪事に手を染めるエホバの証人の女たち

エホバの証人の女が抱える虚しさ

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』より。

エホバの証人に堕ちるのは、圧倒的に女性が多く、堕とす方、勧誘する方も女性が多い。エホバの証人は女性のコミュニティとしての役割を果たしており、群れたがる彼女たちの習性を充たすことで、かつて信者を、組織を忌々しいほどに増殖させてきた。

しかし、この女性たちが堕ちた先がなぜエホバの証人だったのか。お料理教室やご近所付き合い、今でいうところのママ友、職場や学生時代の旧友との安全な付き合いでなく、なぜ危険で濃密なカルトでなければならなかったのか?

その核心に迫るような迫らないような、第七章 女。

輸血拒否で亡くなった被害者児童の母親。後に輸血拒否で失う子供を身ごもった頃から”むなしさ”を感じるようになった。それに対し筆者は

その”むなしさ”とやらがどうしてもピンとこなかった。まるで命の塊のような子供を二人も授かり、むなしい母親なんているものなのだろうか

と書いている。

みずみずしい生命の塊を前にして、その生命の塊でさえも有限の生命で、さらに自らの生命は下る一方。一塵の虚しさが吹き抜けてもおかしくはない。とはいえ、

人生なんて虚しいもの。巨万の富も才能も、寿命の前にはほとんど役に立たず、美貌も若さもいずれ衰える。人生は有限で虚しい。人によってはみすぼらしくさえある。

それが古今東西、ありとあらゆる人類、英雄から凡人に至るまでの普遍のルール。人間の一生は限りあり、それゆえにどこか虚しさを伴う。

輸血拒否が子供の意思であろうとなかろうと、ものみの塔の罪は重い

エホバの証人(JW)、「血を避ける」比喩のこじつけ

女性であること、孤独であることはエホバの証人であることの許しにはならない

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