『良心の危機』、著者のものみの塔感覚に対する違和感

ものみの塔は「ふるさと」にはなり得ない

『良心の危機』、第11章「決心」から。著者のたどる経歴は何となく知っていたので、この章あたりから激動するのかと読み進めるも、何となく不快感のある章。

しょうもないものみの塔資料の引用が減ったのは良いのだが、読みながら著者に感情移入したあと、はっと我に返る。すると著者の真意には、ものみの塔に対する僅かな親しみ、のようなものが混じっていて不快感を覚える。

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私は育ったふるさとを捨てたのだが、それはそこで育っているときにエホバの証人の子供であったために、ふるさとが不愉快な記憶に満ち満ちているから。育った場所より、脱会後に住んだ場所の方が長いので、出身地としてそのふるさとの名を上げることもない。

とはいえ、そのふるさとが憎いかと言えばそうでもない。そのふるさとの記憶が忌ま忌ましいのは、そこがコンビニ一軒すらない田舎だからという訳でなく、エホバの証人の子供だった自分自身に由来する。

なので、そのふるさとが嫌いかと言われれば、そうでもなく。あんな田舎には二度と住みたくないけれど、景色は良いし、中には良い奴もいたくらいの感情。

著者のものみの塔に対する感覚もこれに似ている。だから不愉快に感じる。私のものみの塔に対する感覚は違って、ものみの塔が心の底から憎い、嫌い、カルトこそ滅びろと。

結局、現役信者であった頃の著者は、常に受け身で自らの所属するカルトに対して刃を振り上げることもなかった。本人がものみの塔をカルトと認識していないから。著者からは、ものみの塔は完全悪でなく良い面もあるという、微かな懐郷の念を感じる。

不愉快なエホバの証人だらけの環境での永遠は地獄

個々の信者に対しても同じく、著者は

統治体にはたくさん良い人がいる

と書いている。私は個々のエホバの証人が憎くこそはないが、人生を制御され不自由な生き方をしている人間を見るのは不愉快極まりない。そして、統治体メンバーのように立場と環境に流される生き方はしたくない。

ものみの塔協会の1975年の予言ハズシ、統治体の資質不足

著者は最後の最後まで、ものみの塔会長である思い付きの偽預言者筆頭であった叔父の影響下から逃れられなかったのではないか。私は両親ですら、彼らがエホバの証人を続けるのなら捨てるつもりだった。

著者は、ものみの塔のハルマゲドン予言に関しても、当初は期待していて、ハズレが確信できる頃になって翻心している。そして、ようやく組織のあり方についても疑問を感じる。(感じるだけで、組織内で暴れたり即座にやめたりはしない。)

つまりは、著者は一時は永遠の命という、ものみの塔のぶら下げた人参に喰らいついていた。

私は、エホバの証人だらけの牢獄のような場所で永遠に生きるのは無意味だからエホバの証人をやめた。予言が当たらなかったからエホバの証人をやめたのではなく、自由を制限されるエホバの証人が嫌でやめた。自分で何も決められないダサいエホバの証人の一員でいるが嫌だった。

これらが著者とのズレ。だから、読んでいて不快な部分があるのではないかと。

しかし、不快だから読むに値しないというのでは全然なく、感情を揺さぶられるのは、やはり本として力があり、著者の観察力と表現力の成果。こんな真摯なキリスト教徒であろうとするエホバの証人もいるんだという発見もあった。


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