『良心の危機』、リーダーは被害者意識で罪から目をそらすな

リーダーが追随者って?

『良心の危機』、第11章「決心」。クライマックスなのか、やたらと長い本章。昨日の記事で書いたように不愉快な所もあるが、読む価値は充分にある。

快不快を含めて著者の人となりが文章だけで伝わるので、筆力はさすが。長年教団の無茶ぶり宗教本を、何とか着地させていただけのことはある。

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著者には悪いのだが、今日も不快な部分から。ある元エホバの証人たちが著者に語った言葉が

「私たちは追随者の追随者だったのです」

「私たちは犠牲者の犠牲者だったのです」

これに対して、著者はこう書いている。

どちらも当たっている。チャールズ・テイズ・ラッセルは、ある人々の言うことに従った結果、「明らかにされた真理」という概念の犠牲となった。以来、歴代のリーダーたちも同じ道をたどり、時としてもとからあった思い込みにさらなる思い込みを付け加えていった。私にはこれについて許せないような気持ちはなく、ただ自分の知っている人たちに対して気の毒だと思うばかりである。私もそういう「犠牲者の犠牲者」であり、「追随者の追随者」だった

おいおい、お前は被害者づらしちゃダメだろ。あと歴代リーダーと創始者ラッセル君も、犠牲者とか追随者では決してない。

リーダーってリードする奴のこと。指導して進むべき方向を示す者。例えエホバの証人が当初から再臨派の二番煎じであったとしても(この辺も本書が詳しい)、始めた奴、歴代のリーダーには進む方向を決めてきた責任がある。

単なる追随者や犠牲者ではない。被害者の一面はなきにしもあらずかも知れないが、あったとしてもわずか。全世界の不幸のどん底にいるエホバの証人と、その不幸に気付きもしないマインドコントロール下にある信者に対して大きな罪を背負っている。

ものみの塔協会の1975年の予言ハズシ、統治体の資質不足

片田舎のエホバの証人の子供だった私にすら、罪の意識がある。両親がカルトに長期間加担し、私自身も随分と布教活動に連行されて真似事をしていた。

ものみの塔に対しては、被害者としてのムカつきがほとんどだが、加担者としての罪悪感もある。そのため、本ブログを始めとした世直し活動、ものみの塔の存在しない正常な世界に戻す活動を行っている。

ド田舎の末端信者の子供だった私にさえ、ものみの塔に加担した罪の意識がある。それなのに統治体幹部だった著者が「私は犠牲者だった」と、よく言えたものだ。ましてや歴代リーダー、創始者ラッセル君までが犠牲者だとは。おふざけが過ぎる。


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