唯一の清涼なるモノがJW脱会の成り行きという皮肉
『良心の危機』、第12章「最終攻撃」から。私にとっては、エホバの証人にまつわることは不愉快そのもの。子供の頃にこのカルトを強要されて、人生の大きな恥部になったから。
そのエホバの証人に関する本書の中で、ようやく出てきた清涼なるモノ。
著者はエホバの証人を自ら断絶した人と食事を一緒にしたために、エホバの証人組織から排斥される。その成り行き。このエホバの証人的罪状を追求されているときのこと。先に断絶した人の方が著者の立場を慮り
もし自分と付き合うのが賢くないと判断するならそれはそれで構わないとも言ってくれた。
その一年半前、この立場は逆であり、著者の方が先に排斥になる可能性があった。相手はまだ断絶前。しかも著者いわく
そちらのご家族は多い。奥さんも子供さんもご兄弟もお孫さんも親戚も、全員エホバの証人だ。排斥になった私がアラバマに戻って来たらずいぶん厄介なことになる
それでも、戻って欲しいと言われた著者。
今度は立場が逆転したのだから、ここで釣り合いのとれないことをするわけにはいかない、と私は言った。真理のため、そして他の人のために良心に従って行動した人を邪悪だと決めつけるような意見に同調するわけにはいかない。
これらが、エホバの証人組織を追い出される、追い出されないのために割かれた腐心であることは、全く爽やかではない。とはいえ、心意気のようなものだけを受け止めると、ここには友情と「白を黒とは誰にも言わせない」芯の通ったモノがある。
家族親戚がエホバの証人だらけ。その状況で排斥者を囲うと自身までが親戚中から排斥され忌避される可能性大。著者は老齢になるまでの人生全てを賭けた組織からの排斥の危機。本人たちにとって失うモノは相当に大きく感じられたはず。
どっぷりエホバの証人に浸かった人の中にも、自分基準で相手を思いやり行動でのる人物がいるとは驚き。組織に家畜化されずに、自分の意思、判断能力を残している人物。他人をただ単に純粋に思いやれる人物。
いざ、自由な大海へ
とはいえ、そんな美徳のある人たちだからこそ、エホバの証人組織から追い出されることになった。
「組織 >(大なり) 人」のエホバの証人組織。流石のカルトだけに腐りきっている。営利団体でもないのに、個人を切り捨てて組織維持、組織第一主義。
聖書の中に、網かざるのようなモノで人をすくって、どんな小さい粒でも漏らさず選り分けるみたいな聖句があったと思うのだけれど(子供の頃から聖書嫌いなので忘れた・・・)、エホバの証人の場合は組織基準という網ですくって、引っかかった異端分子はポイ捨てしていく。
エホバの証人組織という狭くて汚い水槽だか「いけす」からすくわれて、ポイ捨てされる先が自由な大海。網に引っかかる異端分子の方が爽やかで自分に正直な生き方をしている。しかし汚い水槽で激しく消耗し、網にすくわれる過程で大きな傷を負うことが多い。
違和感を覚えたら、早々にピョンといけすから飛び出していかなくちゃ。
“『良心の危機』、やっと出てきた爽やかなモノとは・・・” への1件の返信