排斥というエホバの証人の死刑宣告

エホバの証人の排斥とは

私の父親はエホバの証人をやめる前は会衆の長老を務めていた。自宅には長老宛ての手紙が日本支部だかベテルだかから何通も送られてきていた。王国会館での集会で読み上げられる発表される内容の手紙もあったが、内密に”と指示されている機密文書もあった。それには会衆内の信者の排斥処分に関わるものも含まれていた。他にも不合理な指示や良く考えると納得の出来ないものもあったのである。

エホバの証人は教義に反した疑いがある、ものみの塔協会の戒律の禁止事項に反していると認定されれば組織から排斥処分となる。疑いがある場合は2人以上の証人がいればクロとみなされ、審理委員会という強権的な場で一方的に裁かれることになる。輸血をしてしまった不貞を働いたなどはもちろん、喫煙を目撃されてもアウトである。

背教じみた行動をしているというような微妙な場合にも厳しいジャッジが下される。組織の中で出る杭は打たれるのである。ものみの塔協会が発行している書籍以外の聖書関連の本の所持もアウトとなる可能性も高い。それがキリスト教に対する熱心さゆえでも関係ない。

上の人間に目をつけられると組織を追い出される可能性が高くなる。細かいことを指摘されて排斥処分となるのである。上層部との人間関係を上手く保っていればセーフとなるケースもある。有名人は良い宣伝になるので排斥されないという説もある。この排斥処分を決定するのは神の意思ではなく単に人間の好き嫌いなのである。





救いや癒しをもたらさないエホバの証人という宗教

洗脳下にある信者にとって組織からの排斥処分はハルマゲドンでの死、滅びを意味する。もはや排斥処分イコール死刑宣告である。会衆の長老を務めていた私の父親がこの組織を去る一因となったのは、こういった個人的な問題や人間関係のもつれ、そしてそれらの問題の解決に何ら役に立たないものみの塔協会の本質にあったのである。救いや癒しをもたらさない宗教には何ら意味がないのである。

兄弟姉妹と呼び合い支えあってきたつもりのエホバの証人だが排斥となれば以降の”交わり”は禁止されることになる。街で偶然会っても目を合わせることすら許されない。一緒に食事でもしようものなら巻き添えで自分まで排斥となる。それは例え夫婦、親子、親族でも同じである。

エホバの証人とは夫婦や親子、友人という最小にして密接であるべき人間関係の良好維持さえ許さない宗教なのである。これよりも組織の秩序を上位に置いているからだ。そんな宗教に何の意味があるのだろうか。組織内での死刑宣告となる非情な指示にも私の父親は従わなければならなかった。それが組織内で”責任ある立場”にある長老の務めだった。

一見、楽しそうに穏やかに保たれている会衆内の秩序だが、彼らの裏面を見ると妬み、密告、監視が充満したとても熱心なキリスト教信者の集まりとは思えない醜態である。信者の個人的な問題の解決方法は、頭でっかちの特権至上主義の組織人間である長老による相談と祈りである。そんなもので本当に問題を抱えている人々の癒しになるはずがあろうはずもない。さらに重大事項については上からの指示を鵜呑みにするだけなのである。


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