エホバの証人 > 大なりわが子、エホバの証人の親のような者

エホバの証人の親のような者

エホバの証人の親のような者の思考状態

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十一章 説得」。本書のクライマックス。

昨日の記事で、マインドコントロールが進行すると、エホバの証人の親は「親のような者」に成り果てると書いた。その親の思考状態が下記のように本書で描かれている。

目の前で死にかけている子どもを見て、輸血をすれば助かるという場面。

輸血してもらおうか

と考える。しかし、

ふと、自分を迎えてくれたエホバの証人たちの温かさを想い出した。今輸血を認めれば、彼らからは離れなければならなくなる

この迷いも一因となり、頑なに輸血拒否を続け、子どもを絶命させた。

この父親が、本当にエホバの証人から離れるのがイヤで子どもの輸血を拒否したのか?本人の心の内までは分からない。とはいえ、エホバの証人の親のような者の心情をうまく説き明かしている。

輸血拒否の最大の要因は、将来の祝福を子ども本人や自分自身が失う、というエホバの証人の教理設定。さらに、組織から追い出されるのも怖い。前者はマインドコントロールゆえの思考なので、トホホンとしか言えないが、後者はなんとも自己中心的な思考。

やっと見つけた温かい居場所を失いたくないという稚拙な発想。子どもの命を救うために最善を尽くすべきタイミングで、この自己都合が混じるのがエホバの証人の親。まさに親であって親ではない親のような者。

組織からの排除は将来の祝福を失うことにも直結するのだが、それも自己のこと。ホントに親のような者だと言わざるを得ない。

エホバの証人 > 大なりわが子の、親のような者

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親であって親ではないエホバの証人(JW)、親のような者

親のような者

エホバの証人の輸血拒否事件、あと一歩で救われた命

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十一章 説得」

エホバの証人の信条による輸血拒否。その結果、少年が死に至る様子が描かれた本章。事故直後から亡くなるまで。

エホバの証人の両親が病院に駆け付けるのが遅れていたら、無事に輸血が開始されていた。少年の被っていた帽子に自宅の電話番号が書いていなければ、エホバの証人の両親に連絡が入ることはなかった。

何かひとつでもボタンを掛け違えていたら、少年は生き残っていた。生きていたとすると、亡くなった少年は私の5才ほど年上。21世紀の今ここに、家庭があり、子どもがいてという可能性があった。

その可能性を打ち砕いたエホバの証人という宗教は、決して許されるべきではない。

親であって親ではないエホバの証人

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エホバの証人道、孤独と嫉妬心を刺激され堕ちていく

孤独や嫉妬から堕ちるエホバの証人道

エホバの証人道に堕ちるのは、感情を刺激されるから

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』より。

通常の思考順序、手順を経由すれば、エホバの証人という奈落の底への一本道へ足を踏み入れることはない。しかし、ものみの塔には通常手続きをすっ飛ばしてエホバの証人という破滅の道を選択させる仕組みがある。

この辺は昨日の記事にて。

ターゲットの感情に訴え、理性を捨てさせる。恐怖、悲嘆、絶望、孤独を抱える人を甘い言葉でたらし込む。または、あえてそういう負の感情を持たせることで、エホバの証人という不条理な道へ跳ばせる。

エホバの証人に逃げなければならないほどの負の感情、その大半が家族にまつわるモノ。

家族を失った悲しみ、孤独、そこを突くのが復活というトンデモ教理だったり、エホバの証人コミュニティの疑似的な温もり。

さらに、家族をエホバの証人側の人質にとり、家族を失う恐怖心、家族の中での孤独感を覚えるように誘導する。

エホバの証人堕ち、最初は孤独と嫉妬から

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エホバの証人の川崎事件、無垢の少年を殺したのは何か?

エホバの証人の輸血拒否

エホバの証人の少年は、なぜ死ななければならなかったのか?

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十章 道」。エホバの証人の川崎事件で、亡くなった児童が当日に走った道。そして、この宗教に堕ちる哀れな人々が歩む精神的な道。その二つの道を走破・考察する第十章。

被害者児童はなぜ死んだのか?それはエホバの証人の教理により輸血拒否したためなのだが、その前段、なぜ事故に遭ったのか?本章では、その詳細が明かされている。

夕方、少年は自転車で家を出た。行き先はエホバの証人の信者の家、目的はエホバの証人の宗教本研究のため。つまり、

当初からエホバの証人に関係しなければ、事故に遭うことは無かった。

エホバの証人の人命軽視

エホバの証人は、永遠の命を持った完全体に生まれ変わるという妄想を強く抱いている。そのため、現在の限りある不完全な命を、心の奥底では軽んじている。

エホバの証人による命の軽視傾向は普段は具現化されることはない。神より与えられた現生命を大事にせよ、という建前にはなっている。しかし、

川崎事件ではエホバの証人の人命軽視主義を、証明してあまりある悲劇の結末を迎えた。

エホバの証人、カトリックの病院はOKなのに輸血がNGな理由は?

エホバの証人の輸血拒否は生命に対する冒涜、生きて償わせるエホバの証人の穢れ

名ばかりの保護者、エホバの証人の親

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エホバの証人に対して愛を示す方法は、彼らを狂人として扱うこと

エホバの証人の命に関する要求には一切応じない

エホバの証人の化けの皮

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』から。

エホバの証人の親が輸血拒否したために児童が亡くなった川崎事件。第八章 医師。著者が治療に関係した医師5名に取材した内容。

医師たちに共通するのは当然、亡くなった児童を救いたかった、という思い。法の規制、医療のあり方、信仰の尊重、そういったモノがごちゃごちゃになっているあいだに、一人の子どもの命が失われた。

諸悪の根源は、目立ちたいから命がけで輸血拒否するように信者を扇動しているものみの塔。エホバの証人たちは、無根拠な輸血拒否教理のために不毛に死んでいる。

こんなカルトへの信仰が尊重される必要などないのだが、一般論ではそうもいかず、結果、無垢の子どもの命が永遠に奪われる結果となった。

本来雑多である宗教を、定義というかたちに押し込め、ブラックボックスの中に放り込んでしまったのではないだろうか。一歩踏み込んで、個々の宗教の内実を見る努力を、放棄してしまったのではないか。極端に言えば、彼の立場を徹底すると、宗教というカラを被っていれば、何をやってもいい

著者は一人の医師の深層心理をこのように指摘している。

宗教というカラを被っているカルトのエホバの証人。化けの皮を剥がせば、組織のためなら子どもに死をも強制する殺人集団。子どもや信者の自由意志を奪い、食い物にする収奪の仕組み。

とはいえ、医師にここまでを求めるのは酷。出血多量で運ばれてきた死にかけの子ども。後で来た親は「何が何でも輸血はできません~」と言っている意味不明人。時間との戦いの中、その宗教の内実を見極めるなんてことはできない。

表面的に見れば、「子どもを殺してください~」と言っているも同じ。明らかにイカレているカルト集団。だからと言って、医師に何ができるというのか。法整備前のこの段階では、宗教というカラを破ることはできなかった。

エホバの証人に対して愛を示す方法

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エホバの証人、カトリックの病院はOKなのに輸血がNGな理由は?

カトリック系の病院には行くのに輸血は拒否するエホバの証人

エホバの証人の矛盾、カトリック大嫌いなはずなのに

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』から。

エホバの証人の子どもが輸血拒否で亡くなった川崎事件。エホバの証人児童が亡くなった病院は聖マリアンナ医大病院。この

大学病院は、上空から見ると、見事な十字架をかたどっている

そうで、エホバの証人が目の敵にしているカトリックの権化みたいな建物。以前から気になっていたのだが、エホバの証人が大嫌いなカトリック系の病院で治療するのはエホバの証人的に問題ないのか?

輸血拒否で児童が死亡というセンセーショナルな点が論争の中心になるけれど、普段あんなにエホバの証人が攻撃している異教由来の医療にお世話になるというのはエホバの証人的に良いの?

緊急時だったので、エホバの証人とはいえ臨機応変に対応した。「そんな細かいことにこだわりはしないエホバの証人って素晴らしい~」と、本人たちは言うのだろうけど、では輸血は?細かいことにこだわって子どもを殺したのはどこのカルトですか?

輸血拒否が子どもの意思であろうとなかろうと、ものみの塔の罪は重い

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』~偶然サバイバルした者の務め

カトリックの病院はOKなのに、輸血がNGな理由は?

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虚しさや孤独を埋めるために悪事に手を染めるエホバの証人の女たち

孤独はエホバの証人堕ちする免罪符にはならない

エホバの証人の女が抱える虚しさ

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』より。

エホバの証人に堕ちるのは、圧倒的に女性が多く、堕とす側、勧誘する側も女性が多い。エホバの証人は女性のコミュニティとしての役割を果たしており、人の群れたがる欲求を充たすことで、かつて信者を、組織を忌々しいほどに増殖させてきた。

しかし、この女性たちが堕ちた先がなぜエホバの証人だったのか。お料理教室やご近所付き合い、今でいうところのママ友、職場や学生時代の旧友との安全な付き合いでなく、なぜ危険で濃密なカルトでなければならなかったのか?

その核心に迫るような、迫らないような、第七章 女。

輸血拒否で亡くなった被害者児童の母親。後に輸血拒否で失う子どもを身ごもった頃から”むなしさ”を感じるようになった。それに対し著者は

その”むなしさ”とやらがどうしてもピンとこなかった。まるで命の塊のような子供を二人も授かり、むなしい母親なんているものなのだろうか

と書いている。

みずみずしい生命の塊を前にして、その生命の塊でさえも有限の生命で、さらに自らの若々しさは下がる一方。一塵の虚しさが吹き抜けてもおかしくはない。とはいえ、

人生なんて虚しいもの。巨万の富も才能も、寿命の前にはほとんど役に立たず、美貌も若さもいずれ衰える。人生は有限で虚しい。人によってはみすぼらしくさえある。

それが古今東西、ありとあらゆる人類、英雄から凡人に至るまでの普遍のルール。人間の一生は限りあり、それゆえにどこか虚しさを伴う。

輸血拒否が子供の意思であろうとなかろうと、ものみの塔の罪は重い

エホバの証人(JW)、「血を避ける」比喩のこじつけ

女性であること、孤独であることはエホバの証人であることの許しにはならない

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エホバの証人は、医療に対する適切な判断能力を有さない

医療に関する適切な判断能力を持たないエホバの証人

恩を仇で返すエホバの証人

先日の記事で、エホバの証人が過失で血を食べたり、輸血された場合のうっかり鯨やうっかり輸血は許される、と書いた。エホバの証人の神エホバは存在しない架空神なので、エホバの証人組織の勝手な設定上、「うっかり輸血」は許される。

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』でもこの命がけの矛盾を指摘している。

この矛盾を知れば、強制輸血に踏み切る医者も出てくるのではないかと、本書では書かれている。(第5章 血)

しかし、

この後の最高裁の判例で、この国のエホバの証人にはどこまでも愚かになる権利が認められた。すなわち、輸血に関しての自己決定権。自ら死に至る自由。

命を救うため、エホバの証人に勝手に輸血すると、逆に訴えられて敗訴。野良犬にエサをやったら噛みつかれたとか、恵まれない人に施しをしたら家財を盗まれたといった不条理。恩を仇で返すエホバの証人。

日本人もこの判決当時に比べたら、賢くなったか?そうでないか?この古い意味不明な判例をひっくり返す時が来たのではないか?

エホバの証人、医療に対する判断能力なし

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エホバの証人の輸血拒否は生命に対する冒涜、生きて償わせる穢れ

生きて償わせるエホバの証人という罪

エホバの証人という穢れ

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』から。

川崎事件の調査のため、エホバの証人組織に潜入中の著者。その祖母が輸血拒否をしているという。説得に向かった著者は

祖母の、エホバの証人として生きてきた人生を、その誇りのままに、閉じさせてあげたい。そう感じた

という。

たまにこういう論調をエホバの証人非信者から聞くのだが、私の考えとは相容れない。

エホバの証人として生きた人生は、誇りになどならない。穢れ。人生の汚点。例え死ぬ直前の慰みであっても、エホバの証人として死んでいこうとしている人間には真実を伝えるべきだ。

「エホバの証人として生きて、人生を無駄にしたね」と。無駄にするだけならともかく、

「有害なカルトに協力して、世界に害悪をばらまいた。罪深いね」と。

残酷かも知れないが、真理を追い求めて、真理に命をかけた人間には、真実を伝えねばなるまい。

そして、中途半端に口当たりのいいことだけ言ってあしらっていると、死後にエホバの証人親に祟られることになる。

祟られるのは冗談半分だとしても、どうせ死ねば、エホバの証人理論でも完全に無になるのだから、言うことは言っておいた方がいい。

「エホバの証人として殉教したなんて、残された家族にしてみれば恥でしかない。それ以上に無念。家族よりもカルトを優先するなんて」と。

言いたいことは言っとかないと、こっちが後悔する。むしろ、後悔しないように言いたいことはピンピン生きているあいだに言っておいたほうがいい。

エホバの証人を生かせ

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エホバの証人、「血を避ける」低レベルな比喩のこじつけ

アルコールを避けろと言われてもアルコール消毒はするよね

エホバの証人の低レベルな比喩、こじつけ

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』より。

聖書の「血をタベルナ」を輸血拒否にまで超拡大解釈して、生命を冒涜するエホバの証人の不思議。その謎に下記のような回答がなされている。聖書内に「血を避けろ」と書かれているのをものみの塔が引いている。

<もし医師がアルコールを避けなさいと言ったとすると、それはただ口から飲んではいけないという意味であって、血管に直接注入するのは差し支えない、ということでしょうか。もちろん、そうではありません!ですから、『血を避ける』ということも、血を体内に少しも取り入れてはならないという意味です。>

完全な詭弁。著者はこれを、「実に明快な比喩」、「なるほどねぇ」と評しているが、これはどうかしている。

しょうもない戯言でもしっかり潰しておかないと。

「アルコールを避けなさい」って言われても消毒にはアルコール使うでしょ。これは用法の問題であって、完全拒否、回避するか否かの問題ではない。

そもそも、アルコールを血管に入れる奴はいない。

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』~偶然サバイバルした者の務め

輸血拒否が子供の意思であろうとなかろうと、ものみの塔の罪は重い

血を避けろってのなら、自身の身体の血液は避けなくて良いの?

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