存在しない神エホバに命を捧げるエホバの証人の愚かさ

エホバの証人であることの愚

空想の産物「エホバ」を崇拝する愚かなエホバの証人

『近現代日本とエホバの証人』より。あとがきに次の一文。

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本書には、エホバの証人と比べて「われわれの宗教」がいかに優れているか、あるいは「特定の宗教集団に所属しなかったわれわれ」がいかに賢明であるか、といったことを語る材料や事例を提示する意図はない

研究的視座に立つ本書はこれで良い。あとは私の方で

「エホバの証人に所属すること」がいかに愚なることか、書いておく。

エホバの証人の成すべきことは、神エホバの宇宙主権の立証。それって必要?誰に頼まれてやっているの?

神エホバです。というのがエホバの証人の回答だろうが、その神が存在するって根拠がない。

エホバの証人ができたのが、19世紀末。キリストが活動していた時期からいったい何世紀の時が経っているのか。その間、何してた?宇宙主権の神よ。

そして、エホバの証人のようなろくに働きもしない連中に、宇宙主権の証明を助けて貰わにゃきゃならないの?エホバ君は。無力だね。激しくショボい神。自分で何とかすりゃ良い。創造主様よ。つまり、

エホバという神など存在しない。19世紀末に人間により創作された空想の産物がエホバ。そんなモノを崇め奉っているエホバの証人がいかに愚かであるか。

エホバの証人の輸血拒否という愚

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エホバの証人の狡猾なメディア戦略、大好きな司法制度

エホバの証人の司法制度利用

エホバの証人のメディア戦略

『近現代日本とエホバの証人』。第四章「従順の時代」の後半部分。

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本章の題材は、1970年中頃から1990年中盤までの日本のエホバの証人について。最終節では信者とエホバの証人組織、エホバの証人組織と世間との軋轢について触れられている。

この辺りは読んでいて腹立たしく、やはりこのカルトを野放しにしてはいけないと強く思う。それと同時に、エホバの証人というカルトが手強くも感じる部分でもある。

単独の信者個人を見ると、よく言えば純朴、率直に言えは社会不適合、愚か。クレバーな要素はほとんどない。しかし、組織体として見ると、組織の拡大維持・集金集客という目的に対し合理的かつ老獪な動きをしてきている。

まずマスコミ対策。輸血拒否で信者の子どもが死んだ際には

マスメディアからの批判的な取材に対しては、あくまで個人信者の意思の問題であり教団の方針ではないとしており、教団レべルでの応答や露出もきわめて少ない

あくまで、輸血拒否して死んだのは個人の意思であるという立場。

「輸血したら排斥村八分にしてハルマゲドンで殺すぞ」と情弱信者を脅している真実にはキッチリふたがされている。

批判されるときは多くを語らないものの、逆に輸血のデメリットを謳い、自教団の主張をするときには

メディアを「教育する」という方針のもと、全国版・地方版の医療関係記事の記者たちと会合をもつキャンペーンも展開された

都合の良いときにはメディアを大いに利用する狡猾さを見せる。エホバの証人らしい裏表。二枚舌。ご都合主義。

話は逸れるが、輸血にいくらデメリットがあろうと、輸血しないと今すぐ死ぬという最悪の事態を避けることが優先されるべき。

輸血の危険性と目前の死の危険性とはまったく別モノ。後遺症が怖くて死んでいたら何の意味もない。エホバの証人お得意の話のすり替えで命を弄んでいるにすぎない。

エホバの証人(JW)の結婚問題、無理ゲーの一発勝負

エホバの証人が利用する司法制度

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『良心の危機』、エホバの証人(JW)の茶番の数々その2

エホバの証人の悪事

1回ならOK、2回目からはNG

『良心の危機』、第5章「しきたりと律法主義」、この章でもエホバの証人という組織がいかに偽モノか。茶番の数々が紹介されている。

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エホバの証人と血に関する話。血友病患者に投与される血液成分に関して、ものみの塔の認識は

一回ならば「薬の投与」と見なされるので構わないというものだった。しかし二回以上行うと、これはその血液成分を常に「食べて」いると見なされ、血を食することに関する聖書の戒めに触れるとされた

バカバカしい話で、1回でも2回でも生存のために必要ならば投与すればいい。盗みは一度だけならOKで、常習犯ならNGってわけがない。さすがのものみの塔もこの不条理に気づいたのか撤回、血液成分の注射は無制限OKに改変。

旧基準が適用されている間、二度目の成分注射を拒否している人がいたとしたら?こんな茶番につきあって命を落としていたことになる。甚だしい命の弄び。

ものみの塔は、この朝令暮改を大っぴらにはしない。自身の愚かさを宣伝することになるので。その愚かさのせいで、二回目の成分注射を控えて死んでいった信者がいたかも知れない。

ものみの塔という悪の手先にならないために

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子どもの命を差し出すものみの塔狂信者、エホバの証人

エホバの証人の狂信

まるで死神の如く、病院に集まってくるエホバの証人

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』を読了。

出血多量の重症で病院に運ばれたエホバの証人の少年。信者の両親がエホバの証人の信条により輸血を拒否。輸血すべきか否かの狭間で悩む父親に対し、病院に駆け付けた信者がこう言う。「第十一章 説得」より。

あなたの意思にお任せします。自分でお決めになって下さい。それが信仰というものなんです。そうやって強くなっていくんです

強くなっていくというより、マインドコントロールを深め、無自覚、無感覚になっていく。親・大人・保護者としての自覚を失い組織の言いなりになる。子を失う痛みすら薄れていく。

エホバの証人たちは、「輸血を拒否して子どもを死なすか否かは自分で決めろ」と言いつつ、大挙して病院に押しかけプレッシャーをかける。輸血をすれば、戒律違反になると。そして、組織の掟を破ればどうなるか分かっているな、と圧力をかける。

そして、エホバの証人の少年は亡くなった。

エホバの証人の信者たちが病院に駆け付けているのは、無論心配して、何らかの助けにならんとして。さらに、無輸血対応する病院への転院という目的も。

しかし、本事件の結果から鑑みると、エホバの証人たちは第一の目的として輸血を拒否させるために病院に駆け付けることになった。

エホバの証人が輸血が必要な状態になると、輸血を拒否して命を落とさせるために、信者たちがわらわらと病院に集まってくる。まるで死神。

親であって親ではないエホバの証人(JW)、親のような者

子供の命を差し出す狂信者、エホバの証人

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ラッキーナンバー666、元エホバの証人の数字の話

エホバの証人の陥る迷信

エホバの証人の親のような者の思考状態

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十一章 説得」より。

エホバの証人の少年が、信条による輸血拒否で亡くなった川崎事件。その事件が起きたのが昭和60年6月6日。この6が続く日について、エホバの証人が

あの日は不完全数の六が三つも続いたからな

と。だからこの事故が起こったとでも言うのだろうか。迷信に左右されるマインドコントロール信者の発言。そんなしょうもないことに心をとらわれているから、エホバの証人になって人生を棒に振ってしまう。

6というのは神の数字ラッキーセブンの7に対して、悪魔の数字。というエホバの証人設定。

6が3つ続く日付だからという理由でエホバの証人の少年が命を落としたというのだろうか。エホバの証人の少年が亡くなったのは、エホバの証人の教理のせいで輸血拒否したから。日付は関係ない。

そもそも、悪魔の数字の日にエホバの証人が死ぬなんて、悪魔のほうが神より力があるということ?

さらに、昭和60年和暦の6は、昭和天皇の即位に合わせた年。エホバの証人は人間を崇拝しないという設定なので、天皇に対する敬意は相当に薄い。その昭和天皇の年号の60年の6が効力満点の数字みたいに言っている時点で、まぬけすぎる矛盾。

エホバの証人の「体質」改善

666を避ける元エホバの証人

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エホバの証人 > 大なりわが子、エホバの証人の親のような者

エホバの証人の親のような者

エホバの証人の親のような者の思考状態

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十一章 説得」。本書のクライマックス。

昨日の記事で、マインドコントロールが進行すると、エホバの証人の親は「親のような者」に成り果てると書いた。その親の思考状態が下記のように本書で描かれている。

目の前で死にかけている子どもを見て、輸血をすれば助かるという場面。

輸血してもらおうか

と考える。しかし、

ふと、自分を迎えてくれたエホバの証人たちの温かさを想い出した。今輸血を認めれば、彼らからは離れなければならなくなる

この迷いも一因となり、頑なに輸血拒否を続け、子どもを絶命させた。

この父親が、本当にエホバの証人から離れるのがイヤで子どもの輸血を拒否したのか?本人の心の内までは分からない。とはいえ、エホバの証人の親のような者の心情をうまく説き明かしている。

輸血拒否の最大の要因は、将来の祝福を子ども本人や自分自身が失う、というエホバの証人の教理設定。さらに、組織から追い出されるのも怖い。前者はマインドコントロールゆえの思考なので、トホホンとしか言えないが、後者はなんとも自己中心的な思考。

やっと見つけた温かい居場所を失いたくないという稚拙な発想。子どもの命を救うために最善を尽くすべきタイミングで、この自己都合が混じるのがエホバの証人の親。まさに親であって親ではない親のような者。

組織からの排除は将来の祝福を失うことにも直結するのだが、それも自己のこと。ホントに親のような者だと言わざるを得ない。

エホバの証人 > 大なりわが子の、親のような者

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親であって親ではないエホバの証人(JW)、親のような者

親のような者

エホバの証人の輸血拒否事件、あと一歩で救われた命

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十一章 説得」

エホバの証人の信条による輸血拒否。その結果、少年が死に至る様子が描かれた本章。事故直後から亡くなるまで。

エホバの証人の両親が病院に駆け付けるのが遅れていたら、無事に輸血が開始されていた。少年の被っていた帽子に自宅の電話番号が書いていなければ、エホバの証人の両親に連絡が入ることはなかった。

何かひとつでもボタンを掛け違えていたら、少年は生き残っていた。生きていたとすると、亡くなった少年は私の5才ほど年上。21世紀の今ここに、家庭があり、子どもがいてという可能性があった。

その可能性を打ち砕いたエホバの証人という宗教は、決して許されるべきではない。

親であって親ではないエホバの証人

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エホバの証人道、孤独と嫉妬心を刺激され堕ちていく

孤独や嫉妬から堕ちるエホバの証人道

エホバの証人道に堕ちるのは、感情を刺激されるから

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』より。

通常の思考順序、手順を経由すれば、エホバの証人という奈落の底への一本道へ足を踏み入れることはない。しかし、ものみの塔には通常手続きをすっ飛ばしてエホバの証人という破滅の道を選択させる仕組みがある。

この辺は昨日の記事にて。

ターゲットの感情に訴え、理性を捨てさせる。恐怖、悲嘆、絶望、孤独を抱える人を甘い言葉でたらし込む。または、あえてそういう負の感情を持たせることで、エホバの証人という不条理な道へ跳ばせる。

エホバの証人に逃げなければならないほどの負の感情、その大半が家族にまつわるモノ。

家族を失った悲しみ、孤独、そこを突くのが復活というトンデモ教理だったり、エホバの証人コミュニティの疑似的な温もり。

さらに、家族をエホバの証人側の人質にとり、家族を失う恐怖心、家族の中での孤独感を覚えるように誘導する。

エホバの証人堕ち、最初は孤独と嫉妬から

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エホバの証人の川崎事件、無垢の少年を殺したのは何か?

エホバの証人の輸血拒否

エホバの証人の少年は、なぜ死ななければならなかったのか?

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十章 道」。エホバの証人の川崎事件で、亡くなった児童が当日に走った道。そして、この宗教に堕ちる哀れな人々が歩む精神的な道。その二つの道を走破・考察する第十章。

被害者児童はなぜ死んだのか?それはエホバの証人の教理により輸血拒否したためなのだが、その前段、なぜ事故に遭ったのか?本章では、その詳細が明かされている。

夕方、少年は自転車で家を出た。行き先はエホバの証人の信者の家、目的はエホバの証人の宗教本研究のため。つまり、

当初からエホバの証人に関係しなければ、事故に遭うことは無かった。

エホバの証人の人命軽視

エホバの証人は、永遠の命を持った完全体に生まれ変わるという妄想を強く抱いている。そのため、現在の限りある不完全な命を、心の奥底では軽んじている。

エホバの証人による命の軽視傾向は普段は具現化されることはない。神より与えられた現生命を大事にせよ、という建前にはなっている。しかし、

川崎事件ではエホバの証人の人命軽視主義を、証明してあまりある悲劇の結末を迎えた。

エホバの証人、カトリックの病院はOKなのに輸血がNGな理由は?

エホバの証人の輸血拒否は生命に対する冒涜、生きて償わせるエホバの証人の穢れ

名ばかりの保護者、エホバの証人の親

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エホバの証人に対して愛を示す方法は、彼らを狂人として扱うこと

エホバの証人の命に関する要求には一切応じない

エホバの証人の化けの皮

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』から。

エホバの証人の親が輸血拒否したために児童が亡くなった川崎事件。第八章 医師。著者が治療に関係した医師5名に取材した内容。

医師たちに共通するのは当然、亡くなった児童を救いたかった、という思い。法の規制、医療のあり方、信仰の尊重、そういったモノがごちゃごちゃになっているあいだに、一人の子どもの命が失われた。

諸悪の根源は、目立ちたいから命がけで輸血拒否するように信者を扇動しているものみの塔。エホバの証人たちは、無根拠な輸血拒否教理のために不毛に死んでいる。

こんなカルトへの信仰が尊重される必要などないのだが、一般論ではそうもいかず、結果、無垢の子どもの命が永遠に奪われる結果となった。

本来雑多である宗教を、定義というかたちに押し込め、ブラックボックスの中に放り込んでしまったのではないだろうか。一歩踏み込んで、個々の宗教の内実を見る努力を、放棄してしまったのではないか。極端に言えば、彼の立場を徹底すると、宗教というカラを被っていれば、何をやってもいい

著者は一人の医師の深層心理をこのように指摘している。

宗教というカラを被っているカルトのエホバの証人。化けの皮を剥がせば、組織のためなら子どもに死をも強制する殺人集団。子どもや信者の自由意志を奪い、食い物にする収奪の仕組み。

とはいえ、医師にここまでを求めるのは酷。出血多量で運ばれてきた死にかけの子ども。後で来た親は「何が何でも輸血はできません~」と言っている意味不明人。時間との戦いの中、その宗教の内実を見極めるなんてことはできない。

表面的に見れば、「子どもを殺してください~」と言っているも同じ。明らかにイカレているカルト集団。だからと言って、医師に何ができるというのか。法整備前のこの段階では、宗教というカラを破ることはできなかった。

エホバの証人に対して愛を示す方法

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