エホバの証人のKANCHIG「愛」
元エホバの証人2世の論考集『エビのしっぽ』より。
エホバの証人の信じるアガペーって種類の愛は、非常に危険で、思考の愛。もっと言うと頭の中だけの押し付けの愛
自然な愛ではない。純粋な愛とは全然別物
私の記憶では、エホバの証人の教理では愛に序列があって、最上位の愛が、このアガペー。神に対する畏敬、畏怖の念だとか何だとか。
理屈っぽい。著者が「押し付けの愛」と言っているのはそこ。
「エホバって、こんなに慈悲深く、辛抱強く、愛に溢れ・・・だからエホバを怖れ、愛せよ」と繰り返し繰り返し、しつこく教え込まれる愛。
愛する対象と愛し方を教えられる。この時点で不穏な匂いがする。著者も書いている。「自然な愛」ではないと。不自然な愛。だいぶヤバい香りがしてくる。まさに「非常に危険」。
エホバの証人の場合は、教えられてというより、「脅されて」抱かざるを得ない「勘違い愛」。そんなもん愛じゃないって。
KANCHIGAI→KANCHIG愛。
エホバの証人であることは罪
実際、現役エホバの証人は本当に神エホバを愛してるの?
「はいっ!」ってエホバの証人は即答するんだろうけど、それが危険。なーんにも考えていない。エホバ→愛→YES!という、頭の中の既定路線を一切疑いもしない。単純になぞっているだけ。
見たこともない神エホバを、愛せるの?それって妄想全開。想像力を働かせるのは良い。神エホバがいるのかも知れない。神社や墓参りに行くとご利益があるのかも知れない。その程度に留めないと。
神エホバに一択。盲信して絞っちゃう。証拠もないのに。
「とにかく、ものみの塔協会の言うことは絶対正しいんです。」と。
エホバ一択、盲信するのは良い。限界を超えて愚かな盲信だけど、百歩譲って好きにすればいい。大きな問題はその後、信じるがゆえに人生のすべてを差し出してしまうこと。
時間、金、一般社会における人間関係、教育、仕事。これらに大きく制限をかけて、エホバの証人一択で生きようとする。これが「危険」。
自ら、そうするだけなら「お馬鹿さん」で済むのだが、人は一人で生きているわけではない。ろくに働きもせず、布教活動に精を出し、年をとれば生活保護。エホバの証人は、社会的には害虫同然。
家族に迷惑をかけ、子どもにエホバの証人であることを強制し、さらに赤の他人にまで勧誘活動を行なう。
「危険」なカルトという地獄の入り口、人生の下り坂に人を引きずり込む行為。罪は重い。
天涯孤独、生まれたときも死ぬときも一人。国家に頼らず生きて、一人で野垂れ死ぬんだってエホバの証人なら好きにすればいい。(そんなアウトローなエホバの証人はいないか・・・)
とはいえ、エホバの証人は群れることを強制する。群れて、カルト信者に名を連ねることで組織の力を増している。だから、どんな人であっても、エホバの証人になることは決して許されない罪。
で、結局何か言いたかったというと・・・アガペーなんて要らないと。
やっぱエロスだろ。自然愛。自発的な愛。(他に友情愛とかもあった気がするけど、忘れた・・・)
“エホバの証人の勘違い愛「アガペー」より、「エロス」” への1件の返信