エホバの証人という穢れ
『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』から。
川崎事件の調査のため、エホバの証人組織に潜入中の著者。その祖母が輸血拒否をしているという。説得に向かった著者は
祖母の、エホバの証人として生きてきた人生を、その誇りのままに、閉じさせてあげたい。そう感じた
という。
たまにこういう論調をエホバの証人非信者から聞くのだが、私の考えとは相容れない。
エホバの証人として生きた人生は、誇りになどならない。穢れ。人生の汚点でしかない。例え死ぬ直前の慰みであっても、エホバの証人として死んでいこうとしている人間には真実を伝えるべきだ。
「エホバの証人として生きて人生を無駄にしたね」と。無駄にするだけならともかく、
「有害なカルトに協力して、世界に害悪をばら撒いた。罪深いね」と。
残酷かも知れないが、真理を追い求めて、真理に命をかけた人間には、真実を伝えねばなるまい。
そして、中途半端に口当たりのいいことだけ言ってあしらっていると、死後にエホバの証人親に祟られることになる。
祟られるというのは冗談半分だとしても、どうせ死ねば、エホバの証人理論でも完全に無になるのだから、言うことは言っておいた方がいい。
「エホバの証人として殉教したなんて、残された家族にしてみれば恥でしかない。それ以上に無念。家族よりもカルトを優先するなんて」と。
エホバの証人を生かせ
エホバの証人として犯した罪は、生きて償うしかない。簡単に輸血拒否とかで死なすわけにはいかない。
命より重いものはない。量れるもので、命と同等の貴重なものがあるとしたら、金とか水。例えば、50億円積まれて「奴を殺してくれ」と依頼されれば・・・
いくら金を積まれても殺人はできない。つまり金は命より重くない。
あとは水。砂漠と化した地球で50億人がのどの渇きを訴えている。脱水症状で全滅の危機。井戸を掘れれば、水が十分に湧いてくるのだが、井戸掘りは危険満載で命を落とす危険がある。
それでも、人々を救うため危険な井戸掘りに挑みますよ!という人は出てくる。この場合、貴重なのは水ではなく、人々の命。
つまり、命より重いものは、命だけ。
カルトの輸血拒否教義なんて、生命の前では吹けば飛び散るゴミくずのようなもの。輸血すりゃ助かるのに、頑なに輸血拒否をする。それは生命の冒涜。そんなカルト活動に勤しんだ人生が誇りなどになるわけがない。
それに気づくためにも、輸血拒否で死にたがるエホバの証人を死なせてはいけない。生かし、真実に目ざめさせるべき。
輸血というエホバの証人的禁忌を犯し、苦しむことになる。しかし、そんなものは真実に目ざめることに比べれば序の口。エホバの証人というカルトに騙され、人生を大幅に損ない、さらに自らもエホバの証人という災厄を撒き散らしたという真実。
その真実を知り、絶望こそが人生の真理。その先にしかホンモノの光はない。
“エホバの証人の輸血拒否は生命に対する冒涜、生きて償わせるエホバの証人の穢れ” への5件の返信