暴君、エホバの証人
『宗教消滅 資本主義は宗教と心中する』、5章『宗教と「資本主義経済」の密接な関係』の末尾。
信仰は個人のものであるかもしれないが、宗教というものは必ず共同性を伴っている。個人だけで信仰活動を続けていくということはほとんどない
わけで、
宗教の単位は家族である
という副題がこの章にはついている。
宗教をやっていれば、家族は巻き込まれる。私も宗教2世だから巻き込まれた側。
親は当然のように巻き込んできたのだが、その親自身はどうなっていたかというと、実家の先祖代々の仏壇とか神棚を放棄して、新しく宗教を始めている。
家族単位の宗教を放棄。その立場で、自分の子どもには自分で選んだ宗教を押し付ける。これは暴君すぎやしないか。その横暴を体罰を主とする「懲らしめ」という暴力で強要するのがエホバの証人。
信仰を抱くということは・・・
“信仰を抱くということは、個人だけの問題ではないから・・・” の続きを読む