エホバの証人の川崎事件、無垢の少年を殺したのは何か?

エホバの証人の輸血拒否

エホバの証人の少年は、なぜ死ななければならなかったのか?

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十章 道」。エホバの証人の川崎事件で、亡くなった児童が当日に走った道。そして、この宗教に堕ちる哀れな人々が歩む精神的な道。その二つの道を走破・考察する第十章。

被害者児童はなぜ死んだのか?それはエホバの証人の教理により輸血拒否したためなのだが、その前段、なぜ事故に遭ったのか?本章では、その詳細が明かされている。

夕方、少年は自転車で家を出た。行き先はエホバの証人の信者の家、目的はエホバの証人の宗教本研究のため。つまり、

当初からエホバの証人に関係しなければ、事故に遭うことは無かった。

エホバの証人の人命軽視

エホバの証人は、永遠の命を持った完全体に生まれ変わるという妄想を強く抱いている。そのため、現在の限りある不完全な命を、心の奥底では軽んじている。

エホバの証人による命の軽視傾向は普段は具現化されることはない。神より与えられた現生命を大事にせよ、という建前にはなっている。しかし、

川崎事件ではエホバの証人の人命軽視主義を、証明してあまりある悲劇の結末を迎えた。

エホバの証人、カトリックの病院はOKなのに輸血がNGな理由は?

エホバの証人の輸血拒否は生命に対する冒涜、生きて償わせるエホバの証人の穢れ

名ばかりの保護者、エホバの証人の親

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エホバの証人に対して愛を示す方法は、彼らを狂人として扱うこと

エホバの証人の命に関する要求には一切応じない

エホバの証人の化けの皮

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』から。

エホバの証人の親が輸血拒否したために児童が亡くなった川崎事件。第八章 医師。著者が治療に関係した医師5名に取材した内容。

医師たちに共通するのは当然、亡くなった児童を救いたかった、という思い。法の規制、医療のあり方、信仰の尊重、そういったモノがごちゃごちゃになっているあいだに、一人の子どもの命が失われた。

諸悪の根源は、目立ちたいから命がけで輸血拒否するように信者を扇動しているものみの塔。エホバの証人たちは、無根拠な輸血拒否教理のために不毛に死んでいる。

こんなカルトへの信仰が尊重される必要などないのだが、一般論ではそうもいかず、結果、無垢の子どもの命が永遠に奪われる結果となった。

本来雑多である宗教を、定義というかたちに押し込め、ブラックボックスの中に放り込んでしまったのではないだろうか。一歩踏み込んで、個々の宗教の内実を見る努力を、放棄してしまったのではないか。極端に言えば、彼の立場を徹底すると、宗教というカラを被っていれば、何をやってもいい

著者は一人の医師の深層心理をこのように指摘している。

宗教というカラを被っているカルトのエホバの証人。化けの皮を剥がせば、組織のためなら子どもに死をも強制する殺人集団。子どもや信者の自由意志を奪い、食い物にする収奪の仕組み。

とはいえ、医師にここまでを求めるのは酷。出血多量で運ばれてきた死にかけの子ども。後で来た親は「何が何でも輸血はできません~」と言っている意味不明人。時間との戦いの中、その宗教の内実を見極めるなんてことはできない。

表面的に見れば、「子どもを殺してください~」と言っているも同じ。明らかにイカレているカルト集団。だからと言って、医師に何ができるというのか。法整備前のこの段階では、宗教というカラを破ることはできなかった。

エホバの証人に対して愛を示す方法

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エホバの証人、カトリックの病院はOKなのに輸血がNGな理由は?

カトリック系の病院には行くのに輸血は拒否するエホバの証人

エホバの証人の矛盾、カトリック大嫌いなはずなのに

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』から。

エホバの証人の子どもが輸血拒否で亡くなった川崎事件。エホバの証人児童が亡くなった病院は聖マリアンナ医大病院。この

大学病院は、上空から見ると、見事な十字架をかたどっている

そうで、エホバの証人が目の敵にしているカトリックの権化みたいな建物。以前から気になっていたのだが、エホバの証人が大嫌いなカトリック系の病院で治療するのはエホバの証人的に問題ないのか?

輸血拒否で児童が死亡というセンセーショナルな点が論争の中心になるけれど、普段あんなにエホバの証人が攻撃している異教由来の医療にお世話になるというのはエホバの証人的に良いの?

緊急時だったので、エホバの証人とはいえ臨機応変に対応した。「そんな細かいことにこだわりはしないエホバの証人って素晴らしい~」と、本人たちは言うのだろうけど、では輸血は?細かいことにこだわって子どもを殺したのはどこのカルトですか?

輸血拒否が子どもの意思であろうとなかろうと、ものみの塔の罪は重い

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』~偶然サバイバルした者の務め

カトリックの病院はOKなのに、輸血がNGな理由は?

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エホバの証人は、医療に対する適切な判断能力を有さない

医療に関する適切な判断能力を持たないエホバの証人

恩を仇で返すエホバの証人

先日の記事で、エホバの証人が過失で血を食べたり、輸血された場合のうっかり鯨やうっかり輸血は許される、と書いた。エホバの証人の神エホバは存在しない架空神なので、エホバの証人組織の勝手な設定上、「うっかり輸血」は許される。

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』でもこの命がけの矛盾を指摘している。

この矛盾を知れば、強制輸血に踏み切る医者も出てくるのではないかと、本書では書かれている。(第5章 血)

しかし、

この後の最高裁の判例で、この国のエホバの証人にはどこまでも愚かになる権利が認められた。すなわち、輸血に関しての自己決定権。自ら死に至る自由。

命を救うため、エホバの証人に勝手に輸血すると、逆に訴えられて敗訴。野良犬にエサをやったら噛みつかれたとか、恵まれない人に施しをしたら家財を盗まれたといった不条理。恩を仇で返すエホバの証人。

日本人もこの判決当時に比べたら、賢くなったか?そうでないか?この古い意味不明な判例をひっくり返す時が来たのではないか?

エホバの証人、医療に対する判断能力なし

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エホバの証人の輸血拒否は生命に対する冒涜、生きて償わせる穢れ

生きて償わせるエホバの証人という罪

エホバの証人という穢れ

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』から。

川崎事件の調査のため、エホバの証人組織に潜入中の著者。その祖母が輸血拒否をしているという。説得に向かった著者は

祖母の、エホバの証人として生きてきた人生を、その誇りのままに、閉じさせてあげたい。そう感じた

という。

たまにこういう論調をエホバの証人非信者から聞くのだが、私の考えとは相容れない。

エホバの証人として生きた人生は、誇りになどならない。穢れ。人生の汚点。例え死ぬ直前の慰みであっても、エホバの証人として死んでいこうとしている人間には真実を伝えるべきだ。

「エホバの証人として生きて、人生を無駄にしたね」と。無駄にするだけならともかく、

「有害なカルトに協力して、世界に害悪をばらまいた。罪深いね」と。

残酷かも知れないが、真理を追い求めて、真理に命をかけた人間には、真実を伝えねばなるまい。

そして、中途半端に口当たりのいいことだけ言ってあしらっていると、死後にエホバの証人親に祟られることになる。

祟られるのは冗談半分だとしても、どうせ死ねば、エホバの証人理論でも完全に無になるのだから、言うことは言っておいた方がいい。

「エホバの証人として殉教したなんて、残された家族にしてみれば恥でしかない。それ以上に無念。家族よりもカルトを優先するなんて」と。

言いたいことは言っとかないと、こっちが後悔する。むしろ、後悔しないように言いたいことはピンピン生きているあいだに言っておいたほうがいい。

エホバの証人を生かせ

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エホバの証人、「血を避ける」低レベルな比喩のこじつけ

アルコールを避けろと言われてもアルコール消毒はするよね

エホバの証人の低レベルな比喩、こじつけ

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』より。

聖書の「血をタベルナ」を輸血拒否にまで超拡大解釈して、生命を冒涜するエホバの証人の不思議。その謎に下記のような回答がなされている。聖書内に「血を避けろ」と書かれているのをものみの塔が引いている。

<もし医師がアルコールを避けなさいと言ったとすると、それはただ口から飲んではいけないという意味であって、血管に直接注入するのは差し支えない、ということでしょうか。もちろん、そうではありません!ですから、『血を避ける』ということも、血を体内に少しも取り入れてはならないという意味です。>

完全な詭弁。著者はこれを、「実に明快な比喩」、「なるほどねぇ」と評しているが、これはどうかしている。

しょうもない戯言でもしっかり潰しておかないと。

「アルコールを避けなさい」って言われても消毒にはアルコール使うでしょ。これは用法の問題であって、完全拒否、回避するか否かの問題ではない。

そもそも、アルコールを血管に入れる奴はいない。

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』~偶然サバイバルした者の務め

輸血拒否が子供の意思であろうとなかろうと、ものみの塔の罪は重い

血を避けろってのなら、自身の身体の血液は避けなくて良いの?

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うっかり鯨やうっかり輸血は許される、エホバの証人

うっかり鯨は許されるエホバの証人

エホバの証人の道徳観、うっかり鯨はOK

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の続き。本事件の被害者の命日が6月6日。無念の日。生き残った者の責務として、ものみの塔の糾弾を続ける。

著者がエホバの証人組織に潜入調査中、輸血拒否の戒律について感じた疑念。

故意でなく、過失で輸血されたエホバの証人はどうなるのか?

作中で物理的に完全・完璧な血抜きは不可能、それでもエホバの証人は肉を食べるのかという質問が提示される。それに対し、血の禁令は物理的なものでなく、道徳的なものなのでOKよっ!という立場ある長老という役職信者の見解。

著者はこの指導に違和感を覚える。

宗教上の理由で一切肉を食べない人もいるのに、エホバの証人は鯨以外には制限なし(さすがにスッポンの生き血とかは飲まないだろうが)。鯨は大きすぎて、血抜きが完全に不可能だからという意味不明理論。

エホバの証人の子どもがうっかり、給食で鯨カツとかを食べてしまっても、過失であれば自宅でサクッと祈って詫びておしまい。それで許される程度の道徳観念。

であるのに、輸血に関しては「何が何でも絶対NG!」文字通り命がけで拒否する。そして死んでいく。

うっかり鯨肉は許されるのに、輸血には命かけちゃうという道徳観。命の価値を見積もれないマインドコントロール集団。カルトですから。

輸血拒否が子供の意思であろうとなかろうと、ものみの塔の罪は重い

輸血拒否という些細な問題で大騒ぎのエホバの証人

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ものみの塔聖書冊子協会に対して、振り上げた拳を降ろすとき

ものみの塔がカルトでなくなったら?

エホバの証人を簡単に切り捨てるものみの塔協会

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の続き。少し読み進める。

徹底した聖書の字句中心主義をとる彼らにとって、使徒行伝に「血・・・を避けよ」と書かれてある以上、それを無視することは難しいだろう。この字句主義こそが、「輸血拒否」の看板を掲げさせたともいえる。

一度掲げた看板は、掲げ続けなければならない。

とのこと。

幾人ものエホバの証人が無意味に殉教しているし、ものみの塔は、今さら「輸血OK!」と手の平返しはしにくいはず。

通常の感覚なら。

ところが、ものみの塔にはこういった「情」のようなものはない。囲っている信者に対する愛の欠如。ものみの塔は信者のことを使い捨ての兵隊か、金づる程度にしか考えていない。

21世紀が来ることはないからと、信者の人生設計も財産も、仕事も何もかもを投げ出させ、いざ時が来たら、「ハルマゲドンはもうちょっと先かな」と。長年、時と金を差し出した高齢の貧乏信者に対して、何らかの保障があるわけでもない。

私たちの世代は子どもの頃、ものみの塔の指導で親に叩かれまくったが、既にそれも無かったことにしようとしている。

いずれも、信者が自主的に人生を棒に振り、親が勝手に子どもを叩きまくっただけ、ということになっている。

ものみの塔は、当然のように信者を切り捨てる。

そうであれば、輸血拒否で亡くなった信者も勝手に自分の意思で死んだということになりかねない。都合が悪くなれば切り捨てられる。

事実、ブルガリアのエホバの証人は輸血しても排斥処分を受けない。

ものみの塔が「輸血拒否」看板を降ろしたら

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輸血拒否が子どもの意思であろうとなかろうと、ものみの塔の罪は重い

エホバの証人の罪深い輸血拒否殺人

完全悪、ものみの塔

今読んでいる『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』より。1985年にエホバの証人の子どもが、輸血拒否を強要されて亡くなった話。

被害者の子どもは

『死にたくないよ、生きたいよ』と父親に訴えてもいる

ところが、父親は耳を貸さず断固輸血拒否。そして、被害者の子どもは絶命。

これをエホバの証人に言わせると

輸血しないで死ぬのがイヤだったんじゃなくて、輸血して復活できなくなっちゃうのがイヤだった

死にたくない、っていうのはそういう意味だった

となる。

日本語が通じないヤバい連中。憶測だらけで好き勝手なことを言う。本人に聞いたわけでもないのに、こんな話を広める。当時、私の両親たちも似たような論調で、この幼い被害者を語っていた。

死者を冒涜する、エホバの証人の自分勝手なウソ。「生きたい」ために輸血したくないなら「輸血したくない」と言うはず。命がけの極地で、そんな曖昧な発言をするはずがない。この子の「生きたい」は、輸血を含むありとあらゆる手段を使って「生きたい」だったんだよ。

著者はこの後、本事件にのめり込み、教団に潜入までして調査する。そう突き動かしたものは

輸血拒否が大の意思であったか否か

大というのは被害者の子ども。

子どもの意思だろうが何だろうが、そんなモノは関係ない。子どもは騙されているのだから。自分の意思で輸血を拒否しようが、自分の決断で(一旦)死にたがったのだろうが、その根幹にあるのは「人間が復活する」という嘘。

本人が生きたいと言ったのは「輸血して生きたい」でなく「復活して生きたい」だと、エホバの証人は決めつけ、本人の願いだったということにしている。

しかし、そんな危険思想を持たせたのは周囲の大人。周囲の悪い大人のエホバの証人。無垢の子どもを「人間は復活する」と騙して脅して殺す。罪は重い。

輸血拒否が子どもの意思でなく、大人の強制であれは単純な殺人。

輸血拒否が子どもの意思であれば、そう洗脳したものみの塔やエホバの証人の大人たちの罪。生まれながらに「人間は復活する」と仕込まれれば、子どもは信じざるを得ない。「地球が丸い」と、大人が信じているのと同じ。

いずれにせよ、ものみの塔や大人のエホバの証人が完全悪であることは間違いない。

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』~偶然サバイバルした者の務め

背教者のみぞ知るエホバの証人の真理

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エホバの証人(JW)、強制的に輸血して命を救う方法

医療上の適切な判断能力を持たないエホバの証人

死にたがりの愚か者、エホバの証人

ここ数日、エホバの証人(JW)の輸血拒否について書いている。私の経験として、子どもの頃に成否五分五分の無輸血手術に挑まされたことがある。

私は偶然に生き残った。しかし、輸血を拒否したばかりに適切な医療を受けられず亡くなったエホバの証人の子どもも存在する。無意味な戒律で子どもの命を奪うのがエホバの証人。

現在の日本では、15才未満の子どもに対しては、親が輸血拒否しようが親権停止して輸血し、救命することが可能という考え方になっている。
※2023/11/20追記、この親権停止措置。非常時には全然間に合わないらしい。交通事故といった超緊急時には、エホバの証人の子どもは親の輸血拒否で命を落とすことが十分にあり得る。

親子とはいえ別人格であり、子の生存を脅かすことは許されない。そして、15才未満の子どもは医療に対する判断能力がないとされているから。命の価値を推し量れない子どもには、自分で死を選ばせないということ。

15才以上で、自身で輸血拒否して死にたがっている場合には、輸血できない。大人として、医療に対する判断能力、自己決定権ありとされているから。無許可で輸血した結果、エホバの証人側に訴えられて、医療側が敗訴したというバカげた判例がある。

命を救う行為が罰せられるという不条理。

何かで読んで、出典が思い出せないのだが、”この国では、どこまでも愚かになる権利が自由という名のもとに保障されている”。まさに、死にたがりのエホバの証人がその愚か者たち。

無輸血手術、不毛な命がけの勝負に挑まされるエホバの証人の子ども

エホバの証人、命がけのものみの塔崇拝、輸血拒否というブラックジョーク

エホバの証人、命に対する適切な判断能力なし

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