『カルト村で生まれました。』被害に巻き込まれる子供
ヤマギシ会というカルト集団で育った半生を、マンガ形式で描いた一冊。この団体は全財産を巻き上げる点や、子どもに対する強烈な体罰を行うという点から、完全にカルト。
エホバの証人との類似点3つ
- カルトである
- 子どもを巻き込む
- 児童虐待を行う
エホバの証人との相違点3つ、ヤマギシ会は
- 親子が一緒に暮らせない
- 高校を卒業したら脱カルトのチャンスが来る
- 季節の行事に対しては寛容
カルトの中にいる人は、情報統制されているので、まさか自分がカルトの餌食になっているとは思いもしない。
ヤマギシ会は、高校卒業時に自分で脱会を選択できる。そのため、多少は良心的と言える。しかし、それまでの感受性豊かな幼少期や少年期は、決して取り戻すことはできない。
金が要らない自給自足の生活を営みたい、ヤマギシ会は、その思想が暴走したカルト。モノが溢れた現代社会で、所有欲を否定するというのは、何でもかんでも手に入れた勝者か、でなければ敗者の遠吠え、現実逃避にすぎない。
しかし、
思想は個人の自由。自給自足の禁欲生活をしたければ勝手にすればいい。とはいえ、無垢の子どもをそこに引きずり込むのは悪行そのもの。子どもを縛り付け、現代社会になじめないように育てるのは、最悪の虐待行為。
エホバの証人との共通点と相違点
エホバの証人も全く同じ。
極端な話、大人がエホバの証人というカルト被害を受けるのは、もはや勝手。自分でカルトという幻想に助けを求め、すがった結果、すべてを失った。最悪な話だが、大人であれば仕方がない。自分でまいた種。受け止め、反省し、やり直せばいい。
だが、子どもの場合はどうなる?私やこの本の著者のように、選択の余地のない子どもの頃からカルトに縛られ、その餌食となったら。
エホバの証人も例外なく、子どもを2世信者にしようとする。
子どもにはひとりひとりに個性や長所があり、それを伸ばすのが親や大人の役目。それを放棄しカルトに任せるというのは言語道断。さらに体罰で縛り付けるというのはもっての他。
ヤマギシ会では、子どもを親と引き離して育てることが強制されている。ここはエホバの証人と違うところ。許された日に親と会って、その後別れるのが悲しいと、作中で語られている。
筆者自身の体験で、親と別れるのが嫌で涙するが、それをものともせず諭す父親、完全にマインドコントロールされている。子どもは親と一緒にいるのが一番なのに。
双方のカルトの共通点である体罰に効果なし
エホバの証人は親子を引き離さないので、この点は問題がないが、逆に問題となるのは体罰。ヤマギシ会の場合は、体罰を行うのは世話係という赤の他人。エホバの証人の場合、子どもに暴力を振るうのは、血のつながった両親。
作中でも、筆者は子どものころに体罰を加えられた世話係に対して、何とも言えない思いを抱いていた。殺意すら抱いていた。エホバの証人も同じ。暴力を振るう者に対して殺意を抱くのは当然、暴力には暴力が返ってくる。
この本の筆者は、体罰を受けている間に笑いをこらえたり、体罰を受けつつ、夕食が抜かれなくて良かったと安心する。さらに巧妙な嘘で体罰を逃れようとする。つまり、
体罰の効果は一切無い。暴力を振るわれる子どもは、その場をしのぐことだけを考える。大人が望むような方向へは歩まない。体罰は子どもに恨まれるだけで、百害あって一利なし。
子どもの健康を害するカルト
この本の筆者は自律神経の乱れから、小学4年生になってもおねしょが治らなかった。この点はエホバの証人の子どもも同じ。私もよく風邪を引いたし、
周囲のエホバの証人の子どもには、アトピーだとか喘息だとか、具合の悪い子どもが多数。カルトの毒が、子どもの健康を蝕んでいる。
エホバの証人と同じところ
- カルトである
- 子どもを巻き込む
- 児童虐待を行う
エホバの証人と異なる点。ヤマギシ会では
- 親子が一緒に暮らせない
- 高校を卒業したら脱カルトのチャンスが来る
- 季節の行事に対しては寛容
エホバの証人版のコミックは
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