エホバの証人2世の残虐性と凶暴性
エホバの証人の子供、2世信者は、幼い頃から自由を制限され、抑圧された生活を余儀なくされる。ものみの塔の厳しい戒律に縛られ、禁止事項を破ると懲らしめという体罰が待っている。この肉体的・精神的苦痛は相当なもの。
この苦痛を外部に向けて発散出来ず、エホバの証人2世は成長するに従って、残虐性や凶暴性を心中に養っていく。体罰により受けた暴力は、徐々に自身の心の中で暴力的思考に変換。そして、蓄積された暴力の種が開放される時は必ず来る。
私の中にもこういった残虐性や凶暴性が確実に積みあがっていた。エホバの証人をやめた後で、その暴力の種が暴発することになった。
エホバの証人をやめた後で陥る非エホバ願望
私は、ほぼ生まれながらのエホバの証人2世で、14才のときに自分の意志でエホバの証人をやめる。エホバの証人をやめた後の私は、知らず知らずのうちに「いかにエホバの証人らしくない生き方をするか」ということを、人生のメインテーマとしていた。
私は、エホバの証人をやめるまで人生のあらゆる面で損をしてきたと考えていた。失われた14年間を取り戻すために、反ものみの塔的生き方をしなければならないと思い込んでいた。
ものみの塔は兄弟愛や隣人愛、利他的な生き方を推奨(強制)する。暴力は否定し、徴兵は拒否するし、学校で武道の授業に参加することも許されない。私はこれらの教理を真っ向から否定した生き方をしようとしていた。
自己愛や利己的な考え方を優先し、自身の利益のためには多少の暴力が伴われても仕方が無いと思っていた。自身と相容れない人々を敵とみなし、激しく攻撃した。彼らがどうなろうと(彼らの生命でさえも)知ったことではないと考えていた。
しかし、一見は反ものみの塔的なこういった生き様は、裏返せばエホバの証人的思考だった。
組織暴力と独善的な考え方を本質とするものみの塔協会
表面的には暴力や自己中心的な考え方というのは非エホバではある。ただ、組織の力を用いた暴力とも言える強制が、エホバの証人界には蔓延している。そして、実際にこの強制に背いた子どもたちに待っているのは体罰、児童虐待。乳児にまで振るわれる恐ろしい暴力。
ものみの塔は、自分たち以外の宗教、政治、団体、組織の全ては悪魔サタンの手先であると教えている。自らだけが真理を語る組織で、ものみの塔以外は全て偽りの組織であるとしている。
自分たちの何度にも渡る予言の訂正を棚上げしておいて、周囲の全てを認めないという独善的な有様。自分の考え方や理想と異なるものを全て敵とみなす考え方、これこそエホバの証人的思考そのもの。
“特権”主義のエホバの証人
また、自己保身や組織内での”特権”を確保するための出世主義は、エホバの証人の自己中心的思考を助長している。エホバの証人にとっての特権とは、信者の前で講演をして拍手される機会や、奉仕の僕(しもべ)※、長老、巡回監督といった役職。
※2023年追記、現在は援助奉仕者と改称
こういった特権が増せば増すほど、神の愛を得られているとされる。さらに、こういった特権は信者の自己顕示欲を満たす。各人間が抱えている欠陥を、特権による自己顕示欲の充足という形で安直に埋め合わせる。それが原因でものみの塔に依存。
こうしてエホバの証人は、他の信者と自分を比べるゴールの見えない特権レースに突入。神を怖れ、自分を見つめるという、あるべき宗教感とは著しく離れているのがエホバの証人の実情。
愛の欠如したエホバの証人の監視社会
エホバの証人信者はお互いにものみの塔の戒律を遵守しているか監視しあう関係にある。ものみの塔の戒律に反していれば密告され、組織から追い出される排斥処分となる。
排斥処分とは、エホバの証人的村八分のこと。排斥者とは街で偶然会っても声をかけてはいけないことになっている。本人が悔い改めて、戻ってきても同じ。組織が認めるまで、一定の期間は許されることはない。
この監視密告主義と排斥という教理は、利他的で愛に満ちた組織のものとは決して言えない。
まとめ
私がかつて実践していた否エホバの証人的生き方、暴力、自己愛の肯定、自己中心的生き方。これらは全てものみの塔協会の本質そのもの。無意識のうちに、エホバの証人は、こういった避けるべき性質を自身の中に養っていく。
それは、以下のものみの塔協会の持つ性質が信者に影響しているから。
- 自己中心的な考え方
- 独善的な態度
- 特権主義
- 相互監視
- 排他主義
- 子供への実際の暴力
- 組織暴力ともいえる教義の強制