エホバの証人の王国会館に通っている間は死人同然
エホバの証人の王国会館のパステルカラーはエホバの証人信者の脳内お花畑状態を象徴している。自分の頭で何ひとつ考えず、現実逃避しているだけ。
エホバの証人の王国会館というパステルカラーの建物の中に捕われている間は死んでいるも同じ、ならばそこから脱出して野垂れ死んだ方が一千倍マシ。結局、エホバの証人をやめても何とか生きていける。
身に付いた節約思考や辛抱強さ、人の顔色を伺う癖、人あたりの良さなど、そういったエホバの証人の特性は、当面の生活にとりあえずは役に立つ。その特性を完全に維持する必要もないし、全部を強引に捨て去ろうとする必要もない。
今まで培ってきたものとして、自分の中に置いておいて、本来の自分の望むものを探しつつ、取捨選択していけば良い。時間が解決してくれる。急ぐ必要はない。
急ぐべきなのはエホバの証人をやめること。人生は短いし一度きり。取り返しがつかない。
エホバの証人の楽園という人間牧場
未だにエホバの証人の王国会館に通ったり、Zoomで集会に参加したり、LINEやメール、手紙で布教活動をしなければならない人はちょっとだけ考えて欲しい。(※コロナ禍の2021年加筆、王国会館での集会再開の2022年さらに加筆)
エホバの証人の行くとされる楽園は本当に良いところなか。無菌室のような場所で永遠に生きるのは、そんなにも魅力的なのか。
エホバの証人だらけの楽園には何の楽しさもない。快楽が全く無い。人間の生が輝くのは、人間の生が短く儚いから。永遠の命というのは、もはや煩わしく、持て余すだけ。
こうエホバの証人に話すと、それは現在の我々が不完全だからで、楽園の生活の中で徐々に完全な人間になる。完全な人間になれば、そんな心配は不要だと言われる。しかし、
そもそも完全な人間とは何か。それは既に人間ではない。個性が有り、欠点があるのが人間。完全な人間だらけの世界、それは完全に家畜化されたエホバの証人だらけの社会。ぞっとするような人間牧場。
完全な人間というエホバの証人の幻想
今日、間違いがあれば、明日はもっといい一日にしたい。日々向上し前進していく。それでも不甲斐ない一日があり、みっともない行動がある。一歩下がるが、また違う明日、ちょっとマシな明日がくる。人生は試行錯誤の繰り返し。
完全な人間って何だ?それって生きている意味ある?完全な人生に楽しさはあるか?失敗があるから成功がある。失敗があるから成功が輝く。完全な人生は平坦そのもの。そこに楽しさや輝きは皆無。そんな状態で生きている意味はない。
エホバの証人が待ちわびている楽園での完全な形での生まれ変わり。実はそれは無価値。永遠の退屈。苦渋に満ちた現実の先にこそ、人生の刹那の輝きがある。それは自分で探すべきモノ。わりと身近にある。
だって、辛いことや面倒くさいことならどれだけでも列挙できるでしょ。それの比較対象として良いこと、ぼんやり光り輝くことがある。今日って嫌なこともあったけど、こんなマシなこともあったと。概していい日だったと。ものの見方しだいで人生は変わる。
そんな思考の転換も、努力も、悲しみも、圧倒的な喜びや快感や快楽がないエホバの証人だらけの楽園。その楽園での完全な命、これは無価値。
あ、そもそもエホバの証人の入る楽園や完全な人間というのは、ものみの塔の創り話だから。そこんトコロ気をつけて。人生はこれ一度っきり、戻ってこない。
“エホバの証人だらけの楽園で永遠に生きるという無価値” への2件の返信