醜悪なエホバの証人の巡回監督、統治体という意味不明集団

醜悪なエホバの証人の巡回監督

エホバの証人の北海道は広島会衆での大量排斥事件の資料を読んでいる。資料へのリンクは

エホバの証人 – STOPOVER(途中下車)

この事件の裁定者の一人になった瀬野という巡回監督は、

「広島会衆はもてなしの精神が不足している」と毎回のように強調

研究生を加えた食事の交わりで、もてなしに対する不満を口に

宿舎を提供した兄弟は、少しもてなそうと努めたところ、奉仕の僕よりずっとましだ

と言われ、

集会が終了したら、会衆の成員が列を作ってお礼に来ることを求め

られた。

「もてなし」とは何か?もてなされるには、もてなされる側に品格、条件が必要なのだが、その欠片もない分かりやすいクソ野郎。だから、もてなされなかったのだろう。

些細なもてなしに感謝の精神を示せば、もっともてなされるのに、足りない足りないもっともっと欲しい欲しい君だから、この巡回監督の瀬野君は嫌われた。

この巡回監督氏は、近寄らないに越したことのない劣悪・醜悪な人物。ところが組織に属する以上、巡回監督という立場を利用されると、下の管理される側は逆らえない。

ものみの塔協会にとってだけの都合の”良い便り”

ものみの塔協会が意思を持たないただのシステムになっている

統治体という意味不明集団がエホバの証人がカルトである証し

この事件の原因と結末からして、この段階で被害者たちがエホバの証人組織に残して貰えるか貰えないか、排斥されるかされないかという選択肢で考えている。決定権を相手に委ねてしまっている。

それならば、どう立ち振る舞えば組織に残して貰えるかと考えるべきなのに、そこはおもねることなく自分たちの義を通す。なぜならエホバの証人が義の組織であると信じ込んでいたから。神から見て正しい道を通せば、悪い方向には転ばないと考えていた。

エホバの証人組織内部にいて、ものみの塔協会を信じ切っていたため、今は迷走していてもいつか正されるので、ここに残りたいという発想になってしまった。

そこは発想を転換し、組織を変えるか、乗っ取るという発想に至れば、ものみの塔協会にもっと大きな打撃を与えられたに違いない。

例えば、前述の典型的なくそ野郎の巡回監督の声の録音を取っておいて、全会衆にばら撒くとか。その時点で背教、排斥になるのだが、目的が排斥にならないことでなく、組織の乗っ取り、正常化、倒壊であれば、違った行動がとれた。

これは歴史の後の人の視線、完全な外部の視線であり、当事者にその余地はほぼ無かったと思われる。また、この時点では、日本支部の不義にはほぼ落胆していたものの、統治体、世界本部は真理を持つと信じ切っていたため、ものみの塔協会倒壊という発想には至りようもない。

この事例から得られる教訓は、何かの組織に属するとき、トップ、上層部を見る、知ることが重要ということ。

周囲が自己中心的野郎だらけでも、上層部が素晴らしいことはある。ところが、上層部が腐敗していたら、漏れなく下層部の人間も腐敗している。そうなると、正常な感覚の人のいる場所ではない。上層部の実情を知ることで、その組織が信用に足るか否か、判断できる。

そういう意味では、ものみの塔協会のようにトップが統治体とか謎の名称で呼ばれた意味不明集団だと、怪しさ満点。カルト協会確定。


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