人生から宗教を切り捨て、目に見えるモノを指針とする

エホバの証人のマインドコントロール

2002年から2003年頃、私は20代前半だった。20年もの間、ものみの塔の深い洗脳下にあったのだが、遂に解放された。

私は、生まれながらのエホバの証人2世だった。「天にエホバという神がいて、ハルマゲドンというこの世の終わりは近い」、ずっとそう信じ込んでいた。しかし、それらは全部、ものみの塔の虚偽だと気付く。これが洗脳が解けた瞬間。

洗脳が解けた瞬間についてはこちら

洗脳解除によって私は、20才をすぎて自分の根幹を失ってしまった。どうやって生きていったら良いのか、何を人生のファーストプライオリティとすべきなのか全く不明。生まれたての赤ん坊状態になってしまった。

惰性で生きる元エホバの証人2世

この後、私は惰性で生き始める。吸っていたタバコを、そのまま吸い続けた。なぜタバコを吸い始たのか?そして、なぜ吸い続けるのか?そのメリット、デメリット、タバコをやめた場合のメリット、デメリットは?

自身の根幹を失ったのだから、一から全部考えるべきだったのに、私はそれをせず、惰性のまま生活を続けた。

心の底からものみの塔が憎かったし、ものみの塔のせいで失った家族のことは悲しかった。とはいえ、ハルマゲドンで明日にでも即死する恐れはなくなった。これは喜びだったし、洗脳が解けた興奮状態にもあった。

そのため、何かをじっくり考えるというよりは、そのまま目先の楽しさを享受する安易な選択をしたともいえる。洗脳解除の翌日は普通に会社に行き、退社後はパチンコ屋に行き、勝てば飲みに行くという、いつも通りの享楽的な生活。

新しい人生の指針が、小さな小さな反エホバ思想

そうした惰性生活を続けていくうちに、自分の中にまた、根っこと呼べるものが芽生え始めた。反エホバだった。反ものみの塔という思想。「嘘つき集団を否定し、奴らと正反対の生き方をしなければならない」という考え方。

私は、この考えが根ざすと同時に、その生き方を実行し始めた。ここが安易でいけなかった。よく考えるべきだった。「反エホバ!反エホバ!」と、強く主張している時点で、洗脳されていたときと何ら変わらない。

存在すらしない神エホバに振り回され、本来の自分を見失っている。結局、私はエホバという猛毒に深く蝕まれていた。

元エホバの証人としての傷が深いあいだは、ものみの塔なんて無視しておけばいい。まずはエホバをキッパリ切り捨てることが大事。

そのあいだに新しいメンターを探そう。また騙されてもいい。騙されたと気付ける考え方、思考法を養えた、勉強できたと、思えばそれば良い。

そして、新しい人生の指針は宗教ではないほうが圧倒的に健全。会社で出世している人だったり、世の中の成功者だったり、歴史上の偉人だったり。

メンターが神とか教祖でない人間なら、メンターに倣いつつ批判することができる。あの人はすごく立派だけど、女性関係はだらしないな、と。何もかも言いなりにならないように、制限をかけられる。

というか、制限をかけるべき。でないと騙される対象が、宗教から人間に変わっただけという、何の解決にもならない可能性があるから。

人生から宗教を切り捨てて、新しい指針を探す

基本、宗教は見えないものを崇めるので、一見怪しげ。それを補うために、深い自己批判・自省、もしくは欺瞞、まやかし、ごまかし・偽善が必要になる。前者はまともな宗教で、後者はカルト。

エホバの証人をやめて心が定まらない間は、自分を見つめることも叶わない。そんな余裕はないから。そして、エホバの証人らしい決めつけ思想が抜けきっていない間に、新興宗教系のカルトに触れるのは危ない。またすぐにハマってしまう。

よって、

宗教は人生から切り捨て、目に見える成果を上げている人・団体を指針として、人生を再構築すべき。

私はこれをやらずに、自分の心の声に従い、指針を定めた。自分の心の声に従う。これは何の問題もないのだが、私の心の声は「反エホバ、反ものみの塔」、これは本当の自分の心の声ではなかった。

強く否定することは、否定対象に縛られ、心揺さぶられているということ。すなわち、「反エホバ」は「エホバ」そのもの。まだまだ、深い洗脳状態にいるのと何ら変わらなかった。

エホバの証人脱会後の後遺症についてはこちら


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