エホバの証人に自殺者が多い理由②:エホバの証人2世の軽い命

命の価値の軽いエホバの証人2世の子ども

エホバの証人に自殺者が多い理由

なぜエホバの証人に自殺者が多いのだろうか(当社比)?その理由を考えるために、前回は、私がエホバの証人2世だった頃に起こした自殺未遂について触れた。

前回の話はこちら

今回は下記2点から、エホバの証人に自殺者が多い理由を考察する。

  • 私はなぜ自殺しようと思ったのか?
  • 当時の私にとって、なぜそんなに命の価値が低かったのか?

私の自殺未遂の理由①

幼児の私は包丁を持ち出して、自分の体に突き立てようとしていた。この理由は今となっては定かではない。

エホバの証人2世として、炎天下や雪の降る中を、来る日も来る日も伝道活動で連れまわされるのが嫌だったのか?きたるエホバの証人2世としての地獄の学校生活を予見していたからか?

どちらでもなく、ただの子どもの悪ふざけだったように感じる。気味の悪い、行きすぎた悪ふざけなのだが、このふざけすぎにはキッチリとした理由がある。

エホバの証人にとって命の価値は尋常でなく軽い。人間の命など、エホバの証人にとって吹けば飛ぶようなもの。

なぜか?エホバの証人信者以外の人類は皆、滅ぼされると教えられているから。エホバの証人信者でない人は誰もが、優しいおばあちゃんや親族のおじさん、学校の先生、隣の家の人、誰もがもうすぐ神により滅ぼされ死ぬ。

エホバの証人信者は全員、今すぐにでもその終わりの日、ハルマゲドンが来ると教えられている。エホバの証人にとって、人類全員の命が期限付きの短いモノ。もしくは忠実なエホバの証人であるという条件付きで継続するモノ。

エホバの証人の子どもにとって、命は低価値・短時間。ゆえに自分の命も吹けば飛ぶほどに軽い。包丁で突き刺してしまえるレベルだった。

私の自殺未遂の理由②

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雪だるまを作れないエホバの証人2世の子ども、諦めと許しと

雪だるまも禁止、エホバの証人の子ども

雪だるまを作れないエホバの証人2世

息子の小さな頃の写真を見ていると、雪だるまと一緒に座っている写真を発見。彼の全身の大きさが雪だるまと同じくらい。何とも可愛らしく懐かしい。息子がまだ歩けるかどうかの年齢なので、雪だるまは私が作ったモノだろう。

私の小さな頃のアルバムにも似たような写真があった。雪だるまと子どもの私が並んでいるのだが、よく見ると違いがある。

息子のは雪を球状にしたモノが2つ重なった雪だるま。不格好ながらに私が描いた目、口もついている。私の小さい頃のは雪を球状にしたものが一つだけ。頭がついていない。

微妙な表情の幼い私、その横に丸い大きな球状の雪。気にしなければ、そのままスルーなのだが、私はその写真を見ていて悲しい事実を思い出した。これもエホバの証人にまつわる話。

子どもの私はコロコロと雪玉を転がして大きな球に。雪だるまの胴体を作った。そしてもう一個、一回り小さめの雪だるまの頭を作ろうとしたのだが、ここで両親にストップをかけられた。

雪だるまはエホバの証人にふさわしくない。

という理由で。

諦めるエホバの証人の子ども

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「だるまさんがころんだ」ができないエホバの証人の子ども

「だるまさんがころんだ」さえ禁止、エホバの証人の子ども

幼児教育を受けられない子どもたち

幼稚園児の息子を、幼稚園バスまで送っていったときのこと。

バスを待っている間、息子が幼稚園の友達と「だるまさんがころんだ」と言って遊びはじめた。なんだか古風な遊びをしているなと思ったのだが、ふと気付くと私は「だるまさんがころんだ」で遊んだ記憶がない。

おそらく私が幼稚園や保育園に行っていないからだろう。息子が通う幼稚園もそうなのだが、幼稚園や保育園では、季節に応じて子どもに伝統的な習慣や遊びを教える。

生まれながらにエホバの証人2世だった私は、親が必要ないと決めていたせいで、幼稚園や保育園といった幼児教育を受けていない。

私同様にほとんどのエホバの証人2世の子どもたちも幼児教育を受けない。教団が幼児教育を受けることを推奨しないから。

小学校からは義務教育なので、エホバの証人2世の子どもでもしぶしぶ通わされる。それ以下の年齢のあいだは、エホバの証人の伝道奉仕活動という布教活動に連れまわされる。

私が幼児だった頃は、この布教活動が激しく行われ、エホバの証人の特徴になっていた。文字通り、家から家へと周り、赤の他人の家の呼び鈴を鳴らしまくる。炎天下でも台風が来ても、大雪が降っても、この布教活動に連れ周された。

些細なことも禁じられる、エホバの証人の子ども

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エホバの証人2世、恥にまみれた屈辱的な小学校生活

エホバの証人2世、屈辱的な小学校生活

エホバの証人2世の子ども、灰色の小学校生活

私は、ほぼ生まれながらにしてエホバの証人という宗教の2世信者として育てられた。小学校高学年になると、エホバの証人2世という境遇が圧倒的な不運だと思い始めた。

エホバの証人2世である限り、明日は楽しみではなく、日常の景色は灰色だった。

2日か3日おきに抜群に退屈なエホバの証人の集会がある。この日は、放課後に友達と遊ぶことは許されない。集会の予習をしなければならないから。この集会では、1ヶ月に1回程度の間隔で割り当てというモノが回って来る。

エホバの証人の親が子供に勧誘活動をさせるのは虐待

割り当てとは、各信者が宗教勧誘の練習のため、聴衆となる大勢の信者の前で講話や勧誘の模擬練習をすること。これは、神権宣教学校という、ものみの塔の教育プログラムになっていた。

小学生の私は、一番初学の5分程度の聖書の朗読と講話をしなければならなかった。この準備も面倒だった。

エホバの証人の集会の日は友達と遊ぶこともできないし、集会の無い日でもエホバの証人でない友達と遊ぶことに対して、親は良い顔をしなかった。

集会の無い土曜日も、学校が終わった午後になるとエホバの証人の布教活動に出かけなければならなかった。

私が小学生の頃は、土曜日の午前中はまだ学校があった。途中で学校も完全週休2日制になったのだが、私にとって嬉しくも何ともなかった。結局、エホバの証人の布教活動に参加しなければならない時間が増えただけ。

私にとって小学校生活は、楽しみなど何もない灰色だった。

痛みを伴うエホバの証人2世の小学校生活

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エホバの証人の子供に生まれた圧倒的不幸、監視される学校生活

不幸なエホバの証人の子ども

エホバの証人2世の学校生活

私は生まれながらのエホバの証人だった。小学校高学年になった私は、クラスメイトと同じようにクリスマス会に参加したかったし、校歌も国家も普通に歌い、騎馬戦にも出たかった。

しかし、そういった活動すべてはものみの塔の柔軟性のない態度によって禁止されていた。ものみの塔は、他の宗教を全て異教・異端とみなし攻撃対象にしている。本来は自分たちが異端そのものなので、滑稽な話。

クリスマスは普通にキリスト教に関連した行事なのだが、エホバの証人から見ると異端の行事のため禁止。節分や七夕は、当然のように禁止。

私の子どもの頃はなかったのだが、最近騒がれるようになったイースターやハロウィンも禁止。

給食の前の合掌も、日本の神仏への祈りのポーズと同じなのでNG。合掌しないだけならともかく、キリスト教ポーズで祈りを捧げなければなかったので、周囲から見ると明らかな変人。給食は毎日のことなので辛かった。

エホバの証人の子どもには心休まる日は無い。

学校の先生は、小学生の私が何らかの行事に参加しないと言うたびに干渉してきた。この行事は宗教性は無いのではないかと。しかし、小学生だった私がエホバの証人の掟を破ったらどうなっただろうか?

親に怒られるだけでは済まない。エホバの証人の教理に背くということは、狂信的なエホバの証人信者である親との決別を意味する。

親の保護なしには生きられないし、親を捨てる覚悟もない。10才ちょっとでその覚悟はなかなか持てない。親に保護されて生きてきた時間が、人生の総量に占める割合として大きすぎた。いまだ、両親の愛情を必要とする年齢だった。

であれば、親に秘密で学校だけでエホバの証人でない顔をするしかない。しかし、学校の先生はその秘密保持を保証できない。親に黙っていて、後でばれたとき、自己の保身ができないから。

エホバの証人の親は怒り狂いますよ。子どもに異教の行事を押し付けたんじゃないのかと。覚悟も無いのに、仕事だから念のため干渉してくるだけの無能な地方公務員、エホバの証人の子どもだった私は、学校の先生をその程度に捉えていた。

エホバの証人の子供に生まれた圧倒的不幸

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エホバの証人2世の子ども、苦痛と恐怖に満ちた少年時代

苦痛を抱えるエホバの証人の少年

行動を大きく制限されるエホバの証人2世の子ども

私は、ほぼ生まれながらのエホバの証人の2世信者で、苦痛に満ちた少年時代を送った。

エホバの証人の王国会館で開かれる集会には、週に3日も通わなければならなかった。

集会というのは、教団出版物の討議や祈り、讃美の歌の合唱などが行われるエホバの証人のミサのようなもの。集会の日には、その予習をしないといけないため、友達と遊ぶことはできない。

この頃、1980年代には土曜日の午前中は学校の授業があった。土曜の午後はエホバの証人の伝道奉仕活動に連れて行かれるので、友達とは遊べなかった。伝道奉仕というのは、エホバの証人の布教勧誘活動のこと。

日曜日も午前中は、エホバの証人の集会で王国会館へ連れて行かれるし、午後はまたまたエホバの証人の布教活動。

両親は、エホバの証人でない友達と遊ぶと良い顔をしなかった。ちょっとやんちゃな友達だと、あの子と遊んではダメだ、と制限される。

何の楽しみもない子ども時代だった。それだけならまだ良いのだが、エホバの証人2世の子どもは、学校に行けば他人との違いをまざまざと感じさせられる。これが一番辛かった。

エホバの証人の集会とは?日程・曜日・服装などまとめ

エホバの証人2世の子ども、苦痛に満ちた少年時代

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エホバの証人のローカルルール~ものみの塔は唯一の真理の経路ではない

エホバの証人のダブルスタンダード

元エホバの証人2世の高校デビュー

私は、ほぼ生まれながらにしてエホバの証人2世として育てられた。禁止事項の多いものみの塔の教理を厳格に適用され、少年期までを過ごす。その後、14才になる年に、自分の意志でエホバの証人をやめる。

そして、エホバの証人2世だったことなど素知らぬ顔で、高等課程へ進学。いわゆる高校デビュー。この学校は、自宅から1時間ほど離れていて、私のエホバの証人2世だった過去を知っている人、つまり、私と同じ中学校からの進学者はほとんどいなかった。

しかし、この学校には、他の地区からエホバの証人2世が進学してきていた。偶然にも、同じクラスに2人も2世信者がいた。1人は献身までしているという。さらに、2人とも私が元エホバの証人2世であるということを知っていたようだった。

私がエホバの証人へ戻ることに未練を捨てきれない両親が、クラスメイトたちの親と不要な連絡をとっているようだった。しかし、その2人は、私に対してエホバの証人という関係性で接触してはこなかった。

私にしてもそれは大歓迎だったので、知らぬ存ぜぬで通すことにしていた。

信仰を押し隠すエホバの証人2世たち

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エホバの証人が見ることを許されないテレビ、その理由とは?

TV禁止のエホバの証人

エホバの証人2世の育つ毒家庭

私は生まれながらのエホバの証人2世だった。両親ともにエホバの証人という毒家庭で成長した。

1980~90年代、学校の友人の家にはたいていテレビゲームがあったのだが、私の家にはなかった。貧乏とかではなく、わが家がエホバの証人だったから。

エホバの証人は各家庭によって、ものみの塔の教理に対する厳格さや忠誠度が異なる。このため、中にはテレビゲームが許されているエホバの証人2世の子どもがいた。私にとっては、うらやましい限り。

私の家にはテレビすら置かれない時期もあった。両親は、テレビから流れる情報のほとんどは悪魔サタンが流している有害な情報だと信じていた。両親は、それほどに深いマインドコントロール状態にあった。

とはいえ、テレビが置いてあった時期もあった。しかし、1日に見ることのできる時間は30分とか1時間と、ガチガチに決められてはいた。しかも、NHKだけしか映らないように設定されていることもあった。

また、見たい番組は事前に両親の承認を得なければならなかった。許しが出た番組でも、一緒に見ていて途中でエホバの証人にとって「ふさわしくない」シーンがあると、テレビを消される。

「ふさわしくない」というのは、不道徳や暴力など。テレビで、未婚のカップルがキスしたり、服を脱ぎ始めたりするとチャンネルを換えられた。そもそも、子どもの大好きな戦隊物やヒーロー物は暴力的という理由で許されなかった。

傲慢エホバの証人よ、自分の頭で考えろ

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エホバの証人の悲しい父親、「野球盤」の思い出とは・・・

エホバの証人の子供の野球盤の思い出

エホバの証人の子ども、野球盤の思い出

私は幼い頃からエホバの証人2世として育てられた。

子どもの頃に好きだった野球選手は清原和博で、小学生のときに初めて買ったCDは槇原敬之の『冬がはじまるよ』だった。中学生の頃に好きだった歌手がチャゲ&飛鳥の飛鳥涼だった。

後年、彼らが薬物絡みで問題になったことと、私のエホバの証人2世としての経歴が関係しているのかどうかは解らない。個人的に抱えている葛藤が共鳴したのか、ただの偶然なのか。

野球の清原に関する話はまだある。私は本当に清原が大好きで、1987年の日本シリーズのことをよく覚えている。

日本シリーズ最終戦で、日本一まであとアウト1つという場面。1塁の守備についていた清原が、早まって男泣きしたシーンが忘れられない。対戦相手が清原が入団を希望していた巨人だったことも関係していたのだろう。思いのこもった涙だった。

当時流行っていたボードゲームの野球盤が我が家にもあった。エホバの証人の宗教本研究の後で、ちょっとだけ、父が野球盤で遊んでくれた。無論、私は当時清原が所属していた西武ライオンズで父と対戦する。

野球盤はピッチャーの投げる球速が調整出来た。スピードを全開にすると、普通の人の動体視力では到底打ち返すことが出来ない。凄まじい投手戦になりほとんど点数が入らない。

そのため、我が家の野球盤は投手側のバネをひく部分に丸めたティッシュを詰め込んで、スピードが限界まで出ないように改造されていた。ゲーム中に、何回か決めた回数まではそのスピード制御装置を外すことができるルールにしていた。勝負所で高速球を放ることが出来るため。

そんなこんなで、ある程度のゲーム性まで高められた野球盤で、小学生の私は父と遊んでいた。

エホバの証人の悲しい父親

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子どもの排斥を怖れるエホバの証人親の逆効果、元エホバの証人2世の大暴走

元エホバの証人2世の反動の10代

親子の絆を断ち切る、ものみの塔の排斥処分

私は生まれながらにしてエホバの証人の2世信者として育てられた。

エホバの証人とは通称JWという自称キリスト教系の新興宗教。ものみの塔聖書冊子協会という名前でも知られている。2世信者とは、親の宗教を押しつけられる子どものこと。

私は、14才になる年に自分の意志でエホバの証人をやめた。

その後は、親や宗教に縛られた反動でやりたい放題の人生を歩んできた。ものみの塔によって禁止されているようなことをあえて選んでやっていた。反エホバ、否ものみの塔という立場を積極的に取っていた。

私は20才で家を出るまでは、いまだエホバの証人だった両親と同居していた。”この世”の法律で禁止されているような、未成年の喫煙や飲酒などにも私は手を出していた。ものみの塔的にも、当然それらは禁止。

両親はこの頃になって、私に対して急に甘くなった。幼い頃にものみの塔の戒律を厳重に押し付けてしまったことへの贖罪のつもりだったのだろうか。持て余していただけなのか。もはやこれは確認しようがない。

未成年の子どもがタバコを吸っているなんて、エホバの証人の親としては発狂するような状況。大人のエホバの証人信者でも、喫煙しているのが見つかると排斥処分になる。

排斥とはエホバの証人的村八分で、組織から追い出され、充分に悔い改めたと認められるまで復帰できない。排斥者とは、家族であっても最低限の接触に留めなければならない。街で偶然会っても挨拶すら禁止。

現役エホバの証人の父親にしてみると、一人息子が喫煙を理由に排斥されてしまうことは避けたかった。それは親子の絆が断ち切られるも同然だから。

私のように、ものみの塔協会に献身する前だと排斥にはならない。献身とはバプテスマと呼ばれ、ものみの塔に何もかも捧げると誓う儀式のこと。私がなかなか「バプテスマを受けろ」と両親に言われなかったのは、排斥回避のためだったのかも知れない。

エホバの証人2世の子供のハードスケジュール

中卒上等、エホバの証人2世

エホバの証人の両親による教育の反動

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