エホバの証人の悲しい父親、「野球盤」の思い出とは・・・

エホバの証人の子ども、野球盤の思い出

私は幼い頃からエホバの証人2世として育てられた。

子どもの頃に好きだった野球選手は清原和博で、小学生のときに初めて買ったCDは槇原敬之の『冬がはじまるよ』だった。中学生の頃に好きだった歌手がチャゲ&飛鳥の飛鳥涼だった。

後年、彼らが薬物絡みで問題になったことと、私のエホバの証人2世としての経歴が関係しているのかどうかは解らない。個人的に抱えている葛藤が共鳴したのか、ただの偶然なのか。

野球の清原に関する話はまだある。私は本当に清原が大好きで、1987年の日本シリーズのことをよく覚えている。

日本シリーズ最終戦で、日本一まであとアウト1つという場面。1塁の守備についていた清原が、早まって男泣きしたシーンが忘れられない。対戦相手が清原が入団を希望していた巨人だったことも関係していたのだろう。思いのこもった涙だった。

当時流行っていたボードゲームの野球盤が我が家にもあった。エホバの証人の宗教本研究の後で、ちょっとだけ、父が野球盤で遊んでくれた。無論、私は当時清原が所属していた西武ライオンズで父と対戦する。

野球盤はピッチャーの投げる球速が調整出来た。スピードを全開にすると、普通の人の動体視力では到底打ち返すことが出来ない。凄まじい投手戦になりほとんど点数が入らない。

そのため、我が家の野球盤は投手側のバネをひく部分に丸めたティッシュを詰め込んで、スピードが限界まで出ないように改造されていた。ゲーム中に、何回か決めた回数まではそのスピード制御装置を外すことができるルールにしていた。勝負所で高速球を放ることが出来るため。

そんなこんなで、ある程度のゲーム性まで高められた野球盤で、小学生の私は父と遊んでいた。

エホバの証人の悲しい父親

この野球盤で忘れられないことがある。清原の打席のことだ。私が楽しみにしている清原の打席になると、父は必ずスピードリミッターを外して3球ともに全速で勝負してくるのだった。

清原にホームランどころかヒットすら絶対に打たせない。ホンモノの清原は勝負所に強いスター性のある選手だったのに、私の野球盤の清原は打率0割だった。父はなぜ、勝負度外視で私の野球盤の清原に敵意を剥き出しにしてくるのか。

その理由は幼いながらに私にもよく分かった。エホバの証人はキリストやエホバ以外の誰をも支持してはいけないから。

これは、エホバの証人が選挙の投票を拒否することや国旗の掲揚、国歌や校歌の斉唱に参加しないことにつながる。当然、支持政党を持つことは禁止。政治活動に関わることもご法度。

この延長で、エホバの証人は誰かのファンになるということも禁止されている。スポーツ選手しかり歌手しかり。父親にしてみれば、私が清原を大好きなことが、エホバの証人の教理に反しかけているので気に食わなかった。

そのため、勝負度外視で清原を三球三振に仕留めにかかってきていた。私の清原への思い入れが少しでも冷めるようにということだったのだろう。子どもの大好きなものを禁止し、妨害しなければならない父親というのは何とも悲しい。

考えることをやめ、教団の言いなりになった操り人形。もはや親でも保護者でもなく、親のような者。

エホバの証人親子の悲哀


“エホバの証人の悲しい父親、「野球盤」の思い出とは・・・” への2件の返信

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください