ものみの塔崇拝という罪を犯すエホバの証人
エホバの証人 – STOPOVER(途中下車)より。『欠陥翻訳ー新世界訳』の6章「ものみの塔協会の体質と新世界訳聖書」
エホバの証人の罪は、ものみの塔という偶像崇拝、組織崇拝。
私は、偶像崇拝しようが組織崇拝しようが、罪だとは思っていないのだが、エホバの証人は違う。エホバの証人は神以外に信仰を持たないように、敬意を示さないようにという教理のもと、偶像崇拝は禁止。当然、神以外の何らかの組織を崇拝することも罪。
ところが、いつどこですり替わったのか、エホバの証人はものみの塔という偶像を崇拝し、ものみの塔聖書冊子協会という組織を崇拝している。さらに行きすぎて、統治体という人間集団を崇拝する本末転倒ぶり。
その
組織の氾濫、組織一色
というものみの塔の体質について、本資料では、エホバの証人の使う新世界訳聖書の翻訳から考察されている。
信仰の対象は、エホバの証人であれば、どこまで行っても神エホバ、譲歩してもキリストまでの信仰であるべき。ところが、ものみの塔は神でなく人間に信仰を置くように誘導している。
神の軽視。ものみの塔の幹部連中は、神の存在など端から信じていないのだろう。だからこうして軽々しく神権を侵犯できる。特権・物質主義者。神の名を借りる蛇。
モーセを信仰するエホバの証人
組織崇拝を推し進める体質が新世界訳聖書の翻訳に表れている。本資料には3例挙げられているが、単純な1例を引用。
「民はエホバに対して恐れを抱き、エホバとその僕モーセに信仰を置くようになった」(出エジプト14:31)
これは紅海を真っ二つに割った後のシーン。民がモーセに信仰を置いちゃっている。新世界訳聖書以外の他の聖書翻訳では、モーセを”信じた”、”信頼した”程度の翻訳。モーセに信仰を抱いちゃダメっしょ。
翻訳は解釈なので、いかようにでもなるのだが、聖書全体の文脈に沿って解釈されるべき。この後、モーセは最後の最後で冗長して、神に栄光を帰さず、約束の地に入れないという結末を迎える。
(圧倒的に心が狭く、傲慢なのがこの神、壮大スペクタクルな冒険で命を張ったモーセ。最初で最後の一回くらい、たしなめて終わるとか、大目に見てやれよ)
つまり、明らかに、イスラエル人がモーセに信仰を抱くのは聖書の文脈に沿っていない。人物、組織崇拝を誘導している。この組織・人物崇拝誘導はものみの塔の出版物の方だとさらに露骨。
『エホバへの信仰、エホバが代弁者として用いておられる人々に対する信仰、そうですエホバの組織に対する信仰』
ものみの塔誌「1984/7/1」
もう無茶苦茶。
代弁者に対する信仰、組織に対する信仰。エホバの証人たちは気付いているのか?いかに無茶苦茶な信仰が要求されているか?人間に対する信仰を強要されて、それで神の組織だと?!
“統治体絶対視、組織盲従、偶像崇拝と組織・人間崇拝というエホバの証人の罪” への2件の返信