元エホバの証人二世の親不孝
今日、コンビニでとある親子を見かけた。母と娘、娘の方は私より年上。50歳くらいか。母親の方はもう老人。親子と断定しているのだが、親子と決め付けられる空気を醸し出していた。
母親の方が必死に雑誌を選んでいて、娘の方が横でその姿を見ている。老人特有の身体の衰えによる不自由さで、必死に雑誌を選んでいる姿は、既に認知症ぎみなのかと思わせるほど。
壮健な年齢であれば、雑誌選ぶのにあぁも必死にならないだろう。それを暖かくでも、嫌そうでもなく、日常の一端として付き添っている娘。
近所の賃貸アパートに老人の親子が住んでいる。父と息子。父の方は100歳近いのだろう。身体の自由が利かないらしく車いす生活。毎日、ケアセンターの車が迎えに来て、日中は介護施設に行っている。
息子は毎日、車いすの父親を家の前で送り迎えしている。息子の方も老人、20年近く前に定年退職しているような年齢に見える。昼間に買い物に出るのを見かけるのだが、年齢が年齢がなので、歩くのが辛そうにも見える。
老人が老人を介護するという社会問題とか、この父子は愛想が悪く、挨拶しても挨拶を返してこない(父親の方はもはや前後不覚なのだろうが)。賃貸での老人二人暮らしで、近い未来に不安を感じているのではないかという諸問題は、今回は全く放っておいて、思うことがある。
近所の父・息子、コンビニでの母・娘の親子を見て、私がひしひしと感じてること。
あんな親子の子供側になれなかった。親孝行な子供になりそこなった。
ということ。
昨日のコンビニで母娘を見たときに、涙が出そうに、切ない気持ちになった。自分の母親があれくらいの年齢になったときに、私は母親の横にいないだろう。
エホバの証人、親子累々に及ぼす負の連鎖
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