エホバの証人というカルトから子どもを守るのは大人
『同志少女よ、敵を撃て』より。AmazonのAudibleで聴き終わる直前。
子どもでいられなくなった子どもたちの無念
市街戦の最中、銃弾の隙を見つけては遊ぶ子どもたち。その子どもたちが遊ぶのをやめたとき。子どもが子どもでいることをやめるとき。子どもが子どもでいられなくなるとき。
作中では、子どもの子ども状態からの早期リタイアを「戦争」が強要している。本ブログのテーマであるエホバの証人2世の場合は「宗教」。
宗教とか戦争とか重たい普遍的なテーマになってきたが、結局、子どもが心身共に健康的な子どものままでいられるかは「大人」が握っている。
「戦争」を始めるのは「大人」だし、子どもの心を銃弾で射貫くのは「大人」。カルト「宗教」に加入するのも「大人」だし、カルトの狂気で子どもを傷つけるのも「大人」。
もうアラフォーの私は「大人」でなければならないし、「大人」であるというのは「子ども」たちが「子ども」のままでいられるようにする社会的責任がある。そこまで視野を広げずとも、自分の子どもたちを守るという義務がある。
子どもを深く傷つけるカルト宗教「エホバの証人」を野放しにしないため、このブログはときには過激とも思える表現でエホバの証人を糾弾している。
子どもを傷つけるエホバの証人
エホバの証人がどのように子どもたちを傷つけているのか?
まず訴訟にもなっている児童性虐待。子どもたちを性的に虐待する一部のエホバの証人の怪物ども。そしてそれを隠蔽・擁護するエホバの証人組織。余計な宗教活動をしたために、子どもが決定的に傷つけられ、子どもでいられなくなる。
エホバの証人たちは、終末思想を抱き、その終わりの日には正邪の単純二元論で生死がジャッジメントされると信じている。
世界はそんなに単純には出来ていない。ウイスキーの水割りと同じ。善悪入り混じるのが人間、この世界。敵国の子どもの足を撃ち抜く兵士にも、自国の自分の家族を愛する心がある。それをクイズの二択のように、エホバの証人のハルマゲドンで死ぬ奴生きる奴と区分けできるわけがない。
単純で愚かな自分たちの幼児性を子どもに押しつけ、疑似大人社会に引きずり込むのがエホバの証人。戒律を強制し、信仰を証言させる。守れなければ体罰。自由と好奇心という子どもらしさを制限し、安直で幼稚なエホバの証人世界に強制適合させる。
人間は宗教なんかやらなくても生きていける。それなのに、あえて子どもを傷つける宗教に入る必要はない。