エホバの証人が刈り取る不幸な未来、自ら蒔いたモノの結果

全ての人間は自ら蒔いたものを刈り取る

「人は、誰でも蒔いたものを刈り取ることになる」と聖書にはある。キリスト教を自称する、エホバの証人の聖書にも当然同じようなことが書いてある。

・エホバの証人的解釈その1

マイナスの行いにはマイナスの報いが返ってくる。

「今だけの快楽にふけらず、将来に備えよ」「悪事を行なえば、そのまま自分に返ってくる」「他人への接し方に不義があれば、自分も同様に扱われる」「性に奔放だと、後悔する」

詳しくはないが一般的な解釈と同じだろう。

・エホバの証人的解釈その2

プラスの行いにはプラスの報いが返ってくる。

「善には善が返ってくる」「神に信仰を抱けば、神の愛が得られる」

こちらも同様、詳しくはないが一般的な解釈と同じだろう。

エホバの証人をやらされて良かった、ただ一つのこと 

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エホバの証人が刈り取るマイナスの未来

基本的にエホバの証人は不幸だ。家族は崩壊し、経済的にも恵まれない。心身を病む信者が多く、自殺者やその予備軍の巣窟。10代の頃、私もかつてはその一員だった。

「人は、誰でも蒔いたものを刈り取る」のが一般的事実であることは間違いない。まれにラッキーが降ってくることがあっても、それが未来永劫続くことはない。自分の行いによって、良い未来も悪い未来も、どちらを迎えるのかが決まる。

エホバの証人はどこで間違い、不幸な未来を刈り取ることになったのだろうか?

答えは、行動の選択を間違えたところ。

エホバの証人は、マイナスの行動を避けているつもりが、自ら進んでマイナスの行動を行っている。さらに、プラスだと思っている行動が激しくマイナス、ゆえにマイナスの未来を刈り取ることになるのは歴然たる事実。

エホバの証人は行動を変えない限り、より良い未来を迎えようが無い。

エホバの証人が不幸になる理由

例えば、「今だけの快楽にふけらず、将来に備え」ているつもりが、まったく逆の行動を取っている。宗教という道楽に人生をかけている。将来の備えなどしていない。キリギリス状態。

将来の備えが僅少なのが覚悟の上ならばまだマシ。本人たちはしっかり備えているつもりだからたちが悪い。

備えというのは、ものみの塔の言いなりになって宗教活動を行なえば間違いないという安易な考えによるもの。深く思考することから逃げている。

「悪事を行なえば、そのまま自分に返ってくる」と考えると、ものみの塔というカルト組織に加わり活動すること、それがもたらす結果は火を見るよりも明らか。

「他人への接し方に不義があれば、自分も同様に扱われる」ので、非信者は全員死ぬという差別思想、破壊的思考はそのままエホバの証人に返ってくると考えるべき。世界中の憎しみを一身に浴びても仕方がない。

エホバの証人の排斥という破門待遇での脱会者に対しての村八分扱い。これも同じく。我に返ってくる。

「性に奔放だと、後悔する」のは、全てのエホバの証人にあてはまる訳ではないだろうが、一部の児童性愛エホバの証人による児童性虐待事件が明るみに出ている。この怪物たちは相応の報いを受けることになる。

プラス活動の方。

「善には善が返ってくる」のだが、本人たちが善と信じて疑わないエホバの証人活動は悪事。当然、悪には悪が返ってくる。家族の不和、心身の不調、生活苦。

「神に信仰を抱けば、神の愛が得られる」のかも知れないが、エホバの証人の神はものみの塔という偶像。カルトの象徴。そこから得られるものは何か。負のモノだけ。


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