時代を超えて変わらない、エホバの証人の普遍の真理とは?

精神の安寧、それはエホバの証人を遮断すること

昨日まで、現役エホバの証人と一般女性は付き合うなという記事を書いてきた。エホバの証人撲滅を企てる身としての、一般論としてはそうなのだが、本当に悩んでいる若い男女を目の当たりにすると、そんなに乱暴なことも言えない。

願わくばエホバの証人のほうが脱会、その上で楽しい恋愛、幸せな将来を探してくれないモノかと。都合の良い願い。

この一連の記事を書いている間に、私の持つエホバの証人像と現在のエホバの証人にズレがあることに気づいた。エホバの証人をやめて30年弱。当然と言えば当然。

その間、意識的にエホバの証人を避けてきた。この30年で話したことのあるエホバの証人は、脱会前の両親、私自身の脱会直後の中学校の同級生、高校の同級生(この2人は仮面信者で対外的には宗教を隠していた)、家に布教に来たエホバの証人。

両親以外は、ひと言ふた言という少なさ。ちょっとでも取材しなきゃ、このブログは陳腐化一直線。しかし、エホバの証人を遮断したことが、現在の私の精神の安寧につながっていると思える一面もあり、気が進まない。

※2024/11追記。現在の私は現役エホバの証人の盲信に干渉するため、ゴリゴリに現役信者と接触している。

  • 完全にエホバの証人をシャットアウトし精神の安寧を手に入れた後であること
  • 家族親戚などの利害関係者に現役信者がいないこと
  • エホバの証人絡みのトラウマを抱えていないこと

などがエホバの証人と接触可能になる条件だろうか。

エホバの証人の持つ普遍の真理とは?

おそらく、エホバの証人と話すとイライラするのは間違いない。どんなに時代がたって変化しようが、変わらないエホバの証人の本質。他者依存・不自立・二面性、激しくダサいのに自分が優れているという勘違い。思考停止しているのに自分が賢いと勘違いしいる。私はそれが嫌いだ。

生まれがエホバの証人の私にも、そういった短所が染みついている。だからこそ余計に、エホバの証人に会えばイラだちが募る。あと話が通じないところとか。特に。

本質は変わらないのに、表面的なところがコロコロ変わっているのがエホバの証人組織。

体罰を無かったことにしてみたり、集会が週3から週2に変わったり。終末予言の中身や聖書が変わったり。本部が移転したり、注解がコメントになったり。1,000時間強制奉仕が800時間強制ボランティアになったり。

それでも本質が変わらないのは、あくまで私の予想だが間違いないだろう。エホバの証人には話が通じない。今も昔も同じ。論理的に教理の矛盾を否定しても、

「(エホバの証人)組織は信頼できます」の一点張り。

エホバの証人の真理って、教理とか成員の特質ではない。教理はコロコロコロと変わるから、間違いなく真理じゃない。エホバの証人の中には、親切で温和な紳士淑女もいるだろうけど、それも決して全員じゃない(ほんの一部だろう)。しかも、そんな奴らでも思考停止している。

となると、エホバの証人の普遍の真理とは?

話が通じない。激しくダサいのに自分が優れているという勘違い。他者依存・不自立・二面性。この辺り。


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください