ものみの塔が真理じゃない理由、「新しい光」はさらに「新しい光」の予備軍

エホバの証人の懲らしめという暴力

私がエホバの証人の子供だった頃、前世紀のことだが、散々に懲らしめと称して親に暴力を振るわれた。当時のエホバの証人組織は、明らかにこの児童虐待を推奨していた。

暴力は容易に子供を服従させることができる。楽なので、大多数のエホバの証人の親は何ら疑うことなく、せっせと子供のお尻を叩きまくっていた。

ところが、現在のエホバの証人では、この懲らしめは無いことになっている。今の若い世代のエホバの証人であれは、ノー暴力で育っているのかも知れない。

かつて叩きまくった人も、未だにものみの塔のマインドコントロール化にあれば、「今は叩いていないからOK」と恥ずかしげもなく開き直っちゃう。中には叩かれて成長した人までが、同じような物言い。

今が問題ないなら、過去が無条件に許されるなんてことは決してない。過去に叩かれまくった人が失ったモノ。それは決して戻らないのだから。

エホバの証人の懲らしめという名の体罰と児童虐待

叩かれていない世代、体罰を受けないエホバの証人2世

ものみの塔が真理じゃない理由

ものみの塔という組織は、懲らしめという児童虐待を闇に葬ろうとしている。無かったことにしようとしている。

真理へ一直線という宣伝のものみの塔が、懲らしめ児童虐待をやめたのは、世情を鑑みて。ひより見組織が真理とともにあるとは決して思えない。

このひより見の方針転換は、「新しい光」で組織が正されているんだ、という逃げ口上をエホバの証人はよく使う。

しかし、体罰受けまくった子供と、組織による推奨、反強制で我が子を叩きまくった親。その親子の子育て期間。暴力抜きにした健全な親子関係、それらは二度と返ってこない。

「新しい光」で正されるのが「あり」なら、オウム真理教だってアーレフに正された。エホバの証人はそのレベル。正された後の「新しい光」だって怪しい限り。さらに「新しい光」に置き換わるための予備軍。

そんなものが真理とは到底言えない。

わが家は、暴力なしの親子関係を失った。それを失う前に「新しい光」が出てこないんだったら、ものみの塔は害悪でしかない。必要なときに必要なものが出てこないのなら、その宗教はその人にとって「真理」なんかじゃない。

しかも暴力推奨という余計なことをしていたのならなおさら。否「真理」。

宗教法人名「カーレブ」に正されろ

体罰中止の方向転換、この感じでものみの塔が急速に社会に寄せてきたら?信者を増やすための妥協。社会にへつらってきたら?

輸血OK、子どもは20才で脱会の意思確認をします。まず世俗の仕事をしっかりしますと、ものみの塔がカルト色を払拭してきたら?

それでも、ものみの塔は許せない。オレのは私怨なんで。ものみの塔がぶっ倒れて組織崩壊、宗教法人名を「カーレブ」とかに改称するまで見逃せない。

「ハルマゲドン来ません。神エホバいません。なので、ものみの塔は唯一の真理の経路ではありません。それでも一緒に聖書を勉強しましょう」くらいまで浄化、いや「新しい光」に照らされない限り、絶対に許さない。

それでも、宗教法人名を「カーレブ」にするのは必須ということで。かつて体罰推奨してた罰だよ。


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