エホバの証人の子ども、聖書から小噺スクールの罠
エホバの証人(JW)の子どもに生まれて良かったことってあったのだろうか?と考えた。何か一つでも。
ない。一切、認めない。
総合評価では、間違いなく「生まれがエホバの証人の家庭」というのは、マイナス。さらに、個々の事例で見ても、良かったことなど何一つない。
例えば、子どもの頃から演台で話す練習を強制されたおかげで、話し方が上手くなった、なんて話をよく聞くけど、これは私には当てはまらない。
エホバの証人には、「神権宣教学校」(今はこの呼び方じゃなくなったらしい。何なんだろ?スクール?レッスン?)という布教練習用の学校がある。
その「エセ学校」で「割り当て」という実技訓練の順番が回ってくる。初級編は演台から聖書朗読と小噺で5分。
私は初級編をやっている段階で、この「エセ学校」を自主退学したので、上達も何もない。大勢の前で話すのは最初から嫌いだったし、このスクールで余計に嫌いになった。
「割り当て」後に、大人の信者から褒めまくられるのだけど、これも嫌で仕方がなかった。決まった範囲の聖書朗読と子どもの考えた小噺、しかも親の検閲が入っている。オチもひねりも何にもない退屈な話。それを聞かされて良い大人が
「素晴らしい、感動しました」って、あり得ないでしょ。バカだろ。
この件については、ずっと口から出まかせの、おべっかだと思っていたのだが、実はそうでもないということに脱会直後に気付いた。
ほとんどのエホバの証人にとって、何のひねりもない聖書の教訓トークが心地よく感じる。予定調和こそがエホバの証人にとっての快感。何十年もエホバの証人をやっている間に小難しいことを考えられなくなったり、元来の頭のレベルがその程度だったり、ということ。
そして、このエホバの証人の布教学校のデメリット。教える側がド素人の信者。ロクな社会経験もない素人の信者が話し方の総評をする。ダメな師に教わればダメになるのは当然。
エホバの証人の脳内がヤバい理由
エホバの証人の脳内のヤバさを感じた事例。
エホバの証人脱会直後、中学生の私が書いた背教的な読書感想文。賞を貰ったので、文集か何かに掲載されて学校中に配布された。校内には私以外にもエホバの証人の子どもがいて、その子を通じて親の信者が読んだらしい。感想が
「難しすぎて分からなかった」というのが親経由で伝わってきた。
私は唖然とした。聖書研究とか何とか称して、誰かにエホバの証人の教理を教えようとしている人間がそれで良いのかと。中学生の書いたものを理解できず、他人の人生を左右するような聖書研究(ものみの塔の宗教本研究)の司会ができるのか?
それとも、背教的な物言いは一切受け入れないような頭の仕組みになっているのか。
当時の私はエホバの証人をやめたばかりの興奮状態、教理批判の理論武装も完全武装状態。議論になれば、こてんぱんに返り討ちにしていた。この私の思考を読まれていたのか。勝てなさそうな議論だから逃げた。
もしくは、私の背教的文章を見逃してくれたつもりなのか。それならば、議論して自分の信じる道を私に諭すべきなのではと思った。余計なお世話だけど、それが誠実さ。自分自身の信仰に対しても、中学生の私に対しても。
まとめると、エホバの証人の脳内は、
- エホバの証人の固定観念からハズれるものは疑いもせずにシャットアウト
- 勝てなさそうな議論からは逃走
- それ以前に読解力なし
このとき、「もしかすると、エホバの証人信者のこいつら、全員驚くほどバカなんじゃ?」と思い至る。私は、その意味でもヤバい集団から完全に脱出しつつあることに安堵感を覚えた。
バカは言いすぎにしても、元々の知能レベルは何となく推し測れるし、ものみの塔のマインドコントロールで思考停止しているのが、何よりヤバい。
「自分が正しい」と、信じて疑わない時点で、発展・進化はない。それはすなわち、時代の変化についていけない退化。さらに、何もせず黙っているだけで、人類みんな平等に年をとっていく。老化という衰えに追われる一方。
というわけで、話はそれたけど、エホバの証人をやっていて良かったことなど一切ない。
中二病だった(今でも継続中二病)私の読書感想文の背教的内容。こっぴどく恥ずかしいのだが、14才にして背教者だったという面白逸話なので、近々内容を思い出してここに書いてみたい(もともと従ったつもりもないので、背教者と言われるのは癪なのだが)。
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